夢を見なかった私へ
「女の子は甲子園に出れない。」
「女の子はプロ野球選手になれない。」
私が大嫌いな言葉です。
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小学校に入学と同時に兄の背を追いかけ、私も野球を始めました。
所属する野球チームには、自分以外に女の子は1人もいません。
地域にも1人だけ1歳年上にいた程度で、女の子の野球人口は今よりも更に少なかったです。
それでも男の子に混ざって野球に明け暮れていました。
当時は性別なんて気にしたことは無かったです。
小学生くらいまでは女の子の方が心身ともに成長が早いこともあり、私は早い段階でポジションがピッチャーになりました。
週末のチームの練習以外にも、自主練は欠かせません。
ボールのスピードを上げたい。
コントロールが良くしたい。
綺麗なフォームで投げたい。
毎日練習していくと、少しづつ、時には急激に成長していくことが本当に楽しく、野球が大好きになりました。
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1998年の夏、私に衝撃が走りました。
第70回選抜高等学校野球大会。
属に言う、夏の甲子園です。
横浜高校 「松坂大輔」
私の永遠のヒーローが現れました。
PL学園との延長17回の激闘。
準決勝の逆転劇。
決勝戦のノーヒットノーラン。
それまでも高校野球は見ていましたが、こんなにも夢中になった年はありませんでした。
どの試合も鳥肌が立ちました。
私もこんな凄いピッチャーになりたいと思いました。
平成の怪物に魅了され、私はピッチャーとして輝くことを誓いました。
ピッチングフォームは松坂選手を真似て、背番号も18番に変えてもらいました。
「松坂選手みたいに高校野球で優勝して、プロ野球選手になりたい!」
と大きな夢を描きました。
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周りは私の気持ちを汲み取ることは無く、応援してくれることはありませんでした。
同級生の男の子たちの親に妬まれるので、母は私にピッチャーを辞めて欲しいと言っていました。
学年が上がれば上がるほど、その気持ちは強くなっていたように感じます。
自分の子供が、女の子の後ろを守るということが屈辱的なのだと思います。
私にも兄がいるので、母も彼らの親の気持ちがわかったはずですから。
私の中では、誰にも負けないように人一倍努力をしていたつもりだったのですが、最後まで応援してくれることは無かったです。
それでも大好きな野球で、大好きなポジションで、誰よりもカッコよくありたかったです。
他のチームから指を指されて笑われても、女の癖にと陰口を言われても頑張って来ました。
私は松坂大輔になりたかったから。
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5年生の時、初めてスランプに陥りました。
体が重く、今までのように動けなくなりました。
急に体が女性化してきたからです。
成長する上で避けては通れないことです。
どんなに男勝りな性格でも、生物学上は女です。
反対に同級生は急激に筋肉がつきパワーがあり、俊敏になっていきました。
差が縮まるを通り越して、一気に抜かされました。
今までの自分とはまるで違う、何かに取りつかれたような気分でした。
そして、このタイミングと同時に知りたく無かったことを聞かされました。
「女の子は甲子園に出れない。」
「女の子はプロ野球選手になれない。」
教えてくれたのは母です。
落ち込んでいる私を慰めるために、このまま続けても仕方ないということを伝えたかったのだと思います。
高校野球は出てはいけないルールがあり、プロ野球には厳格なルールはないですが当時は女子野球も無い時代です。
残念ながら、男性と運動で同レベルで戦うことは大人になると相当難しいです。
夢を描くのも一瞬で、夢が崩れるのも一瞬です。
急に体が動かなくなった衝撃に加え、厳しい現実を突きつけられました。
何を目的に、どう頑張れば良いかわからなくなり、野球を辞めようと思いました。
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野球への情熱が無くなっていた時に、チームのOBの大学生が私に声を掛けます。
「俺が最高のピッチャーに育ててやるよ。」
その人は高校生の時東東京の準決勝まで進んだ実力のある人です。
辞めようと思っていた私に手を差し伸べてくれました。
「最後に最強のピッチャーになって、野球人生を終わらせよう」と気持ちを切り替えました。
野球をするのは小学生までと決め、残りの2年間を有終の美を飾るために過ごします。
他のチームメイトがバッティングの練習をしていても、私はピッチング練習です。
とにかく全ての練習をピッチングに捧げました。
私は全く打てない、最強のピッチャーになりました。
どちらかに重きを置かないと、もう男の子達に勝てなかったからです。
私は完全燃焼しました。
最高のボールを投げ続けた2年間でした。
最後の試合も負けましたが、勝負には勝っていた自信があります。
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人生最後にマウンドから投げた相手は、付きっ切りで指導して育て上げてくれたOBの大学生です。
卒業前にコーチ陣とさよなら試合をしました。
他のコーチは私のボールにかすりもしません。
その日の私は過去1番にボールが走っていて、最高のピッチングでした。
OBの大学生がバッターボックスに立った瞬間、空気が変わりました。
時間が止まったような気がして、私は周りの声が全く聞こえませんでした。
バッターボックスに立っているオーラが、今までに対戦して来た人たちと全然違いました。
1対1の真剣勝負です。
私の人生で最後の勝負です。
冬の乾いた空に甲高く金属音が鳴り響きました。
速い打球が一直線にセンターに飛んでいきました。
綺麗に打ち返されました。
ぐうの音も出ないほどに。
全く後悔はありませんでした。
本気で戦ってくれたことがとても嬉しかったです。
この1球で私の野球人生は終了しました。
長くて短い6年間の激闘が幕を閉じました。
最後に「良いピッチャーだった。」と言ってもらえたことは、私だけの大事な思い出です。
それから何年経っても野球は大好きで、高校野球もプロ野球も見ます。
今でも松坂選手は私のヒーローです。
あの日からキャッチボール程度はしても、1度も本気で投げたことはありません。
夢を見ないと決めて、別の道を歩き出したからです。
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2021年、私のスマホがあるニュースを知らせました。
KOBE CHIBENが女子高校硬式野球選抜と試合を行ったと。
KOBE CHIBENはイチロー選手が引退してから作った野球チームです。
翌2022年、東京ドームで開催が決定しました。
更には私の永遠のヒーロー松坂選手もチームの一員として出場します。
チケットを取り、憧れの選手が久しぶりにプレーする姿を見に行きました。
球場には、本気でボールを投げるイチロー選手、本気で打つためにバッターボックスに立つ松坂選手がいました。
松坂選手は4番バッターです。
元々打撃力も高い選手だったので、フルスイングでホームランを狙っています。
イチロー選手がピッチャーです。
球速が130kmで、引退したとは思えぬ素晴らしい投球でした。
現役時代と同じ表情で女子高生と試合をしていました。
もちろん女子高生も真剣です。
必死に投げて、必死に打って、必死に走っていました。
とても胸が締め付けられました。
途中で涙が出てきてしまうほどに。
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試合終了後のインタビューでイチロー選手が言いました。
「甲子園のように、イチローと試合することを目標に頑張って欲しい。」
女子高校野球は、男子高校野球のように大きな大会がありませんでした。
競技人口もとても少ないです。
それでも、日々汗をかいて泥まみれになって練習をしています。
頑張れば選抜されて、東京ドームという夢の舞台でイチロー選手と試合が出来る。
凄く素敵な夢だと思いました。
男子だけではなく女子も盛り上げて、野球を盛り上げたいと。
同時に自分の時にもあって欲しかった。と思いました。
そんな目標が欲しかったと。
東京ドームに立つ女子高生が、とても羨ましかったです。
女子高生の姿を見ると、夢を諦めた自分の姿を想像してしまいます。
頑張っていたら、何か変わっていたのかもしれません。
続けていたら、どこかで彼らと試合が出来たかもしれない。
純粋に応援する気持ちと嫉妬心がグルグルと回っていました。
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それから2023年、2024年と毎年見に行っています。
もちろんこれからも見に行くつもりです。
大好きな選手を見に行くと同時に、女子野球で夢を叶えた高校生を見に行っています。
キラキラと輝いていて、本当に素敵です。
これからも、ずっと野球を続けて欲しいなと。
何の立場でも無い私は思っています。
小学生の私は夢を見ることを諦めました。
でも未来には思い描いていたものと違う夢を作ってくれる人がいて、輝く舞台が出来上がります。
女の子は甲子園に立てないけど、伝説級の野球選手と東京ドームで試合が出来るよ!
女の子はプロ野球選手にはなれないけど、女子野球のプロリーグがあって世界大会にも出れるよ!
想像していた未来を真っ向から否定してくれた、夢と希望に溢れた輝く未来が待ってるよ!
自分以外の誰かが、いつか私の夢を叶えてくれることを楽しみに待っています。