父を語れば [2/3] (エッセイ)
かなり「間」が空いてしまいましたが……。
分量も長めになってしまったことをお許しください。
[1/3]では、父が13歳で家を離れ、陸軍幼年学校から予科士官学校、そして航空士官学校と進み、旧満州で飛行訓練中に敗戦を迎え、全焼した実家に戻って来たまでを書きました。
数年前に新聞のコラムで読み、なるほど、と思ったことがありました。
昭和10年代前半に日本を訪れた米国の外交官が、
「日本の軍人と話す機会があったが、彼らがあまりにも素朴に、『自分たちが正しい』とのみ信じ、微塵も疑っていないことに驚いた」
と書き残していたそうです。
外交官と直接話をしたならば、かなり上位の軍人でしょう。
この記事の、
あまりにも素朴に、『自分たちが正しい』と信じ、微塵も疑っていない。
という部分を読み、
(この《軍人》は、間違いなく《陸幼》出身者だろう)
と思いました。
将校になる陸軍士官学校入校者は、《陸幼》出身者と《旧制中学》出身者がおり、卒業後には前者の出世が早かったようです。
また、旧制中学5年間を経た人間は ── それぞれの好みに応じて多様な本を読み、様々な考え方をする同級生や先輩後輩に囲まれ揉まれた5年を送るわけなので ──《単純な》価値観ではいられないはずだからです。
父は、物事を単純化して考える ── 考えようとする人でした。
「1」か「0」か、「白」か「黒」か、「いい」か「悪い」か、── あらゆることを自分の公式に当てはめ、《デジタル》に判断しようとしました。
後年、成人した私に、例えば、竹中大臣の政策はいいか悪いか、アベノミクスはいいか悪いかなど、「白」か「黒」かを尋ねる彼に、「白と黒が混じって」おり、その中身を説明しようとすると、
「何言っとるか、よくわからん」
という反応を示すのでした。
面倒な説明を聞きたいのではなく、どちらかに決めて欲しいのです。
《価値観は絶対的・共通的なものではなく、「人それぞれ」であり、かつ、状況依存が強くて変化もする「複雑なもの」である》
ということを、理解しようとはしませんでした。
ただし、彼の最晩年には、母が亡くなった後の暮らしの中で、私がくどいほどにそうした説明をするため、徐々に受け入れてくれるようになりましたが。
1枚の写真があります。
「1946年(昭和21年)12月名工専卒業寫眞」と書かれています。
父の姿は最前列の左端に見つかりました。
ちょいと、丸刈り後の市原隼人風でしょうか。
ほとんどの学生は、おそらくは旧制中学の詰襟制服制帽姿です。けれど父は、相当に汚れた上下です。航空士官学校の教練服かもしれません。ズボンの裾が細くなっているところからも、ゲートル巻きに適した、軍服系のものであることが見て取れます。
彼は、中学には12-13歳の1年間しか通っていないため、今や20歳になり、この世代としてはやや大柄なその体躯を納める学生服を持っていなかったのでしょう。帽子は空襲で実家が全焼した時に焼けてしまったのかもしれません。
旧満州から復員した父は、名古屋工業専門学校(後の名古屋工業大学)土木科の「即席コース(と自嘲気味に言っていた)」をわずか1年間の通学で卒業し、二十歳で中堅ゼネコンに入社します。
土木技師見習いのような形で入社後は、中部地区の工事現場を転々としました。自宅にはひと月に1度帰るかどうかで、あとは現場暮らしです。
この時期に彼の上司だった現場監督のKさんの名前は、その後の彼の口から、かなり頻繁に出てきます。
就職し、上司に指導を受けるのは、どの社会人でもあることでしょう。ロールモデルになる人もいれば、反面教師の役回りの人もいるでしょう。
しかし、上司と部下とが、いわゆる飯場に泊まり込み、公私含め24時間寝食を共にするわけです。
「Kさんの布団を畳むのも敷くのも俺がやった」関係は、かなり特殊なものだったでしょう。
父は仕事のやり方のみならず、(あくまでも上司個人の)社会常識を叩き込まれることになります。
戦後間もない頃の道路工事では、囚人を労働力として使うことが多かったようで、
「こっちを若造だと舐めてかかるし、ツルハシを振り上げるヤツもいて、そりゃあたいへんだった」
父が26歳の真冬1月の休暇中、大須のスケートリンクで汗をかいた後自宅に戻ると、母親(私の祖母)が動転してすがりついてきました。
「風呂屋でお父さんが倒れたんだと!」
家にも上がらず銭湯にかけつけると、脳卒中で倒れた父親(私の祖父)が、既にこと切れて板の間に寝かされていた。
「……もう冷たくなっているオヤジの体を背負って風呂屋から家まで帰って来た。人間、死ぬとこんなに重いのか、と思ったな」
7男で末っ子でありながら、兄たちが全て家を出てしまい、「跡取り」状態だった父はスケートで汗ぐっしょりのまま、厳寒期に父親の葬儀まで執り行いました。
その無理のせいでしょう、現場に戻った後発熱し、それでも休めずに働き続けた結果、名古屋に帰りレントゲン検査を受けると、片方の肺がまったく写っていなかったそうです。
肋膜炎、と言っていましたが、おそらくは結核だったようです。彼は入院し、結局、数カ月間休職せざるを得ませんでした。父の遺品の中に《闘病日誌》が残されています。
この時、彼には婚約者がいましたが、この病により破談となりました。
長い闘病生活を終え、職場に復帰した後、
「ひとり、売れ残ってるのがいる(母自身の言葉)」
という親戚の世話で、父は従姉の娘にあたる、24歳だった母と結婚しました。
祖母の話では、去って行った婚約者は美しい人だったそうです。
「親父がその人と結婚していたら、俺ももっとイケてたかも」
父より母に似てしまった私が言うと、妻が笑う。
「バカねえ! そうなってたら、あんたは存在してないわよ!」
私にとって父は、1カ月に1度、のちには2週間に1度やってきて、週末を家で過ごしてまた居なくなる、怖い人でした。
丸い卓袱台で食事をすると、粗忽者(今もそうだが)の私は、味噌汁の椀をかなりの確率でひっくり返しました。
また、小学校に上がっても3日に1度くらいの頻度でオネショをしたので、運が悪いと父の在宅時に事件は起きました。
父は暴力をふるうようなことは決してありませんでしたが、とにかく口頭でよく叱られました。叱られて泣くと、
「男の癖に泣くな!」
とまた叱られるのでした。
何か嫌いな食べ物があると、
「そんなことじゃ、戦争になったらお前は生きていけんぞ!」
と、その嫌いなものばかり食べさせられました。
はっきり憶えているのは、当時としてはご馳走だったすき焼きの夕餉で、
「脂身は気持ち悪いから食べたくない」
とうっかり口に出したら怒り出し、
「じゃあ、お前は脂身だけを食べろ!」
と言われ、泣きながら脂身だけのすき焼きを食べたことです。
父親が不在の家庭は、祖母、母、姉と女ばかりに囲まれ、息子が《軟弱な男》に育つのを警戒していたこともあるのでしょう、自分が家にいる時は、特に厳しく躾けようとしていました。
父が戻る週末には、一家で街中のデパートに出かけました。
2歳上の姉は、この期とばかり父に甘え、人形などを買ってもらっていました。
「ちゃんと勉強するか? お母さんの言うことを聞くか?」
「勉強する。言うこと聞く」
姉はいつもオウム返しに繰り返し、望む物を得ていました。
「お前も、何か欲しいものがあるか?」
父に尋ねられると、私はいつも、
「ない」
と素っ気なく答えていました。
何か買ってもらおうとすると、父が交換条件を出してくるのがとても嫌だったのです。
例えば、
「もうオネショはしないか?」
と尋ねられ、
「しない」
と答えても、それは何の意味もないやりとりだとわかっていました。
父にもわかっているはずなのに、そのような条件を持ち出すのが理解できませんでした。
「欲しいもの、あるんでしょ? お父さんにお願いしなさい」
母も私を、そして実際には父を気遣って促しますが、
「欲しいものなんかない」
私も頑固でした。
「可愛げのない奴だ」
面と向かった言われたこともしばしばでした。
けれども、今から振り返っても思うのは、可愛げがなく、素直でもないのは、実際には、父の方でした。
久しぶりに家に帰り、家族と街に出て、子供に何か買ってやりたいのです。
それならば、── もちろん、経済的に問題が無ければ、ですが ── 条件など出さずに、買ってやればいいのです。
姉は父に甘えるのがうまかったけれど、算数が苦手で、父に特訓されていました。
「なんでこんなことがわからないんだ!」
父が声を荒げ、姉はべそをかいていた光景を憶えています。
《人に教える》ということが、あまり得意ではなかったのだと思います。
さらに言えば、そもそも《人の気持ちになって考える》ということが苦手だったのでしょう。
実は、それは息子に、── この私にも引き継がれています。
時代は高度成長期に入り、ゼネコンは多忙を極めます。
父は沼津地区の新幹線高架工事、静岡地区の東名高速道路高架工事と、現場暮らし・単身赴任が続きました。