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なりたかった職業ランキング《同率第5位:ヒモ》

《薬草栽培農家》と同率5位の職業です。

第5位(同率) ヒモ

果たして、《ヒモ》というのは「職業」なのかどうなのか、異論はあるところでしょう。
でも「なりたかった」のは間違いないし、ある意味、「なってしまった」とも言えます。

私には2歳上の姉がおり、幼い頃から彼女とその友人♀たちとの「ままごと遊び」に付き合わされていました。

この状態は長期に渡って続き、高校生の頃には姉の友人たちと街に出かけたり、泊りでスキーに行ったりしました。
少し年上の女性に囲まれ、世話を焼かれながら過ごす「ここちよさ」をいつも感じていました。

おそらく、そうした環境が影響しているのだと思います ── 高校生の頃に漠然と想像していた「親元を離れて暮らす生活」とは、

水商売の年上女性に生活の面倒を見てもらいながら、酒を吞み、本を読み、書きものをする

イメージでした。
これはまあ、── 《ヒモ》以外の何物でもない。

18歳で家を出ますが、── 才覚が足りなかったのでしょう ── 残念ながらそんな生活は待っていませんでした。

しかし、5年後のエイプリル・フールに結婚した後、大学院修士課程の2年間、収入のない私は《ヒモ的生活》を送ることになります。

地方公務員である九州での教職を辞めざるを得なかった妻は、下記の「怪しい営業所」で半年事務仕事をした後、小学校の産休代替教員に就きました。

育英会の貸与奨学金が月6万円入ってきましたが、これは結局、未来を担保にした「借金」に過ぎません。
私の「稼ぎ」といえば、某企業から受けていた月1.8万円の給付奨学金(⇒授業料に消えた)の他は、教授の息子に「将棋とキャッチボール」を教えて「家庭教師代」を得ていたぐらいでした。
その「家庭教師」も、実際には「前半」で算数を教えていた妻が稼いでいた、というのが正しい見方でしょう。

ということで、期せずして《なりたかった職業》に就く?ことになりました。

この時代の生活を、妻が振り返ることがあります:

「朝起きると、アパートの床にアンタと仲間が酔いつぶれて《行き倒れ》状態になってる ── それを踏まないように台所に行って、朝ごはんを作って食べ、遅刻しないように仕事に出かける ── 毎日がそんな生活だったわ」

実験を終えると研究室で、あるいは大学近くの居酒屋で吞み、終電近くに同級生や友人を引き連れて帰る、既に眠っている妻を起こさないように再び酒盛りを始める ── 確かにそんな生活でした。

「水商売の年上」ではなかったものの、

女性に生活の面倒を見てもらいながら、酒を吞み、本を読み、書きものをする

という《夢の生活》は叶った、と言えるのかもしれません。

私と妻は子供をつくらない約束で結婚し、披露宴もハネムーンもなく、それはいいとしても将来計画などもなく、
「そのうち、海の外へ旅に」
という目的に向けて以外は貯金もろくになく、その日暮らしを続けていました。
大学では確かに論文を読んだり実験したり計算したりの《研究生活》を送っていましたが、それが《換金》されることはなく、家では掃除も洗濯も料理も何もしない ── かなりホントの《ヒモ生活》でした。

こんな生活を1年以上続けた後、ようやく「旅」に出ます。
問題満載の「ソ連領中央アジア」に……。

旅から戻るとあわただしく何件からの就職面接に出かけ、ようやく《社会人らしき未来》が、おぼろげに見えてきました。

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