父を語れば [3/3] (エッセイ)
さらにさらに、間があいてしまいました……。
エピソードの取捨選択に迷いがあり……。
[2/3]では、旧満州から復員した父が1年間工業専門学校の土木科で学び、中堅ゼネコンで働き始め、20代半ばで父親(私の祖父)の銭湯での死、長期に渡る闘病生活を経ての結婚について書きました。
昭和30年代、40年代の高度成長期、特に道路、橋、さらには新幹線や高速道路網を必要とした時期にゼネコンで土木技師をしていた父は、経済的には幸運だったかと思います。
しかし、現場勤めで家族と会うのは月に1度か2度、という生活はずっと続いていました。
彼の頭の中には「権威」から一方向的に伝えられた「教え」が3種類あり、かなり高齢になるまで、彼の価値観を支配していたようでした。
ひとつは両親からの教え。
ふたつめは陸幼・陸士での寄宿舎生活での教え。
みっつめは現場で24時間生活を共にした上司の教え。
ひとつめの教えが色濃く残っているのは、陸幼での《孝》教育と関係しています。
幼い頃は誰にとっても親は「権威」ですが、思春期にはそれを疎ましく思い、反抗する気持ちが芽生えるものです。
また、友人たちとの交流から、また書物から、親から伝えられる以外の価値観に次第に染まっていくものです。
しかし、陸幼での寄宿舎生活では、起床すると、まず第一に、両親が住む方角に向かって感謝の礼をし、次に皇居に向かって礼をとるよう教わるそうです。
《孝》と《忠》です。
この習慣もあり、生真面目な彼には、両親はずっと権威であり、感謝の対象であり続けたわけです。
両親からの教えを自分の子供にも伝えようとしました。
しかし、彼の息子は従順ではなかった。
父が亡くなった後、残した日記の中に、中学生の頃の私が(姉娘と異なり)成績表を親に見せない、という記述があり、黙って見守るしかないか、と付記されていました。
18で家を出てひとり暮らしを始めた時、何よりもまず、この堅苦しい父と離れられるのが、なんともうれしかったことを覚えています。
7年間の学生生活で、父は2回、東京に訪ねて来ました。
1度目は上京した年の秋でした。
私の住むアパートの隣に女子学生専用アパートがあり、5♂対3♀ぐらいが集まって、毎夜のように朝方まで酒とギターでドンチャン騒ぎをしていたら、堪忍袋の緒を切らした大家が実家に連絡して父を呼びつけたのです。
父が会社を休んで上京し、大家にほとんど土下座をして謝罪したのを見て、さすがに、
(……申し訳ないことをした)
と思いました。
アパート代も親に出してもらう「スネ齧り」の立場で、
《「責任」は自分ひとりで完結しないのだ》
と今さらながらに気付いた瞬間でもありました。
大家と別れた後、さぞかし雷が落ちるだろう、と覚悟していましたが、父は、
「お前もひとりで生きているわけではない。何やってもいいが、他人に迷惑をかけないようにしないとな」
と諭すように、穏やかに言っただけでした。
2度目は、そのアパートを1年で追い出され、上北沢に住んでいる時でした。
部屋にノックがあり、ドアをあけると、父が、
「おう!」
とにこやかに顔を出したのです ── 電話など持っていなかったので、まったく前触れなく。
「出張でこっちに来たもんでな……」
ちょうどその時、部屋に遊びに来ていた彼女が、買い物のために外に出た、まさに「間隙」のことでした。
(親父と顔を合わせるのは、まずい!)
瞬時にそう思った私は、父を部屋に上げず、
「仕事はもう終わったの? ── じゃあ、駅前で一杯やりますか?」
と有無を言わさず、外に出ました。
父が部屋に上がったら、女と暮らす気配を感じたかもしれません。
「ここにするか?」
父が指さした店は、貧乏学生にはやや敷居の高い小料理屋でした。
彼は冷酒を2人分頼みました。
皿の上にグラスが置かれ、一升瓶から酒が注がれました。
(……おっとっと)
酒はグラスから溢れ、皿にこぼれました。
私がその頃吞むのはビール(ホッピー)と水割りウィスキーばかりだったので、日本酒のいわゆる「盛りこぼし」を見るのは初めてだったのです。
「こうやるんだ」
父はグラスの縁に口を寄せて酒を啜り、皿にこぼれた酒をグラスに戻しました。
「……ほう」
帰省した時は家で野球中継など見ながら吞むこともありましたが、外で二人で吞むのは初めてのことでした。
そして……人生でそれ1回きりでした。
私の結婚については、院卒業まで2年待つかどうか、式はどうするか、の2点で少々揉めましたが(下記の2記事)一応決着し、明日は熱田神宮で式を挙げる、という前夜です。
父は唐突に、
「お前に、やり方を教えてやる」
と言いました。それはどうやら「初夜」を控えての《あのコト》らしい、とわかり、少々驚きましたが、
「知ってるから、いいですよ、── 教えてもらわなくても」
やんわり断ると、彼は、
「え! そうなのか!」
と絶句しました。
その驚き方を見て、再度こちらが驚いたくらいです。
(まあ、この人ならそれもあるか……)
故郷での就職が決まり、隣り合って暮らすことになりますが、彼と私の価値観の相違は、しばしば対立を生みました。
父が(陸士の同窓会由来らしい)署名簿を持ってきて、名前を書いてくれ、と言ってきたことがありました。
それは、「靖国神社国家護持法案推進」のための署名活動でした。
既に、母と妻の署名がありました。
要は、靖国神社を国営にすべきだ、というわけです。
私は、
「この考え方には賛成できないので署名はしない」
と言い、理由を論理的に述べました。
すると、父は、まるで異星人でも見るかのように私を見て、
「俺は子供の育て方を間違った!」
と怒鳴りました。
《忠と孝》の両方を裏切っている、という所でしょう。
(……いやいや、『ハイハイ、わかりました』と面倒だから名前を書いとけ、という息子だったら、それこそ『育て方を間違った』だろ!)
と思いましたが、黙っていました。
母も妻も私とたいして考えは違わないので、単に面倒を避けるために署名したのは明らかでした。
このエピソードのような「話題」は時々出現し、そのたびに母と妻は(長じて後は娘たちも)、
《話が地雷地帯に進まないように!》
ふたりの♂の間でいつもピリピリしていました。
父が70歳を過ぎた頃、
「死ぬまでにスコットランドに行きたい」
と言うので、一度くらいサービスするか、と一大決心をして休暇を取りました。
彼は定年後に夫婦で何度か海外ツアーに参加しましたが、心臓の弱い母が長旅に耐えられなくなり、元気な父は欲求不満気味だったのです。
ホテルが決まっている以外はほとんどフリータイムのツアーに申し込みました。
こうした旅に参加するのは、カップルか、女同士(友人、母娘、祖母孫娘など)で、男同士、それも父と息子、というのは極めて珍しいそうです。
「親孝行な息子さんですねえ」
一行中の女性陣に何度も言われ、父とは必ずしも打ち解けて話したことなどない私は、少々困惑気味でした。
エジンバラから日帰りツアーのバスを乗り間違えてネス湖まで行ってしまうなど、珍道中もありましたが、完全団体旅行しか経験のない父には新鮮な旅だったようで、帰国後に、
「ロンドンでは地下鉄にも乗ったぞ!」
と意外なことを母に自慢していました。
毎日かなりの距離を歩きましたが、健脚だったのは、陸幼・陸士時代の訓練が効いていたのかもしれません。
もう1度だけ、80歳を前にした父が、サイパンで亡くなった従兄の慰霊をしたい、と言うので、この時は近場のため母も連れて行きました。
表題の写真は、その時のものです。
── 母が亡くなった後、夕食を私たちと一緒に取る他は、父はほぼひとりで生活していました。
母の葬儀の際に、戒名についてあまり愉快ではないことがあり、それ以後時折、自分の葬儀には僧侶を呼びたくない旨のことを口にするようになりました。
そこで、その頃読んでいた、島田裕巳先生の本を父に貸しました。日本の仏教が本来の姿を離れ、どのように「葬式仏教」に依存していくようになったかも書かれています。
「お父さんがその方がいいなら、葬式には坊さんを呼ばずに、俺がやろうか?」
ある日の夕食でそう言うと、
「……それでいいなあ」
と答えました。
90歳をすぎてもよく食べ、夏はビール、冬は焼酎のお湯割りを、毎晩1杯、欠かさず飲んでいましたが、買い物に付き合う頻度が減り、やはり、休んでいる時間が少しずつ長くなっていきました。
── 92歳で父が亡くなった時、彼が仏壇に自作の戒名を残しているのを見つけ、位牌に墨書しました。
葬式までの2日間、彼のアルバムから写真を取り込み、父の人生に関する30ページぐらいのプレゼン資料をパワーポイントで作りました。
幼い日々から陸幼・陸士時代、土木建設現場、母との結婚、家族旅行、新幹線高架工事、退職後の夫婦旅行などの写真に加えて、既に全員が鬼籍に入っている、父の両親・兄姉の若い頃の写真も加えました。
睡眠時間を相当削っての突貫工事でしたが、おかげで、私自身が《父の人生を振り返る》というたいへん貴重な機会を最後の最後に得ました。
プレゼン資料を作りながら、
(息子として世話になったのに、彼の人生をほとんど理解しようとしなかったなあ)
と今さらながらに思うのでした。
父は末子だったので、葬式に参列した従兄姉は全員私より年長で、中には「しきたり」にこだわる人もいるだろう、と少々心配でしたが、
《父の遺志》
で乗り切ろう、と覚悟していました。
大画面モニターとマイクを使ったプレゼンと焼香から成る葬式の後、そんな「うるさ型」の従兄が口を開きました。
「ウチの親父の時は普通に坊さんに来てもらったし、こういう葬式は初めてだけど、── 良かったよ。坊さん呼ぶと、やっぱり坊さんが主役になっちまうからな。今日は叔父さん(=私の父)が主役の、いい葬式だった」
それを聴いて、張りつめていた緊張が解けたような気がしました。