一方で
20代サラリーマンの頃、社内報的な小雑誌の取材で趣味を尋ねられ、
『会社における人間観察』
と回答したことがあります ── イヤなヤツですね。
30歳以降は小説を書いていることが知れ渡ってしまったため、
「あいつには気を付けろ」
「小説のモデルにされるぞ」
など、陰で言われていたようです。
特定のモデルがいるわけではありませんが、短編小説集『怪社の人びと』にはそんな『観察』結果がいくらか反映しているのかもしれません。
人には『口ぐせ』というものがあります。
純粋な『口ぐせ』もありますが、中には『思考法』にまで影響している場合があります。
その人はそこそこ優秀で、そこそこ責任感があり、部下からの評判も上司の覚えも良く、順調に昇格し、マネージャー職に就きました。
マネージャーになった頃から、気になることがありました。
「Aさんが提案したB装置の購入ですが、承認されるんですか?」
部下に尋ねられると、彼は、
「B装置があれば、材料評価がこれまで以上に迅速に進む。あった方がいいね」
「まあ、あるに越したことはないでしょうが……」
そう言う部下の顔色を見ながら、彼は続ける。
「一方で……このコストに見合う価値があるかどうか、しっかり考えなければいけないね」
最初はむしろ、優れたバランス感覚を示しているように思えた。
こちらに進むべきだ、こちらしかない、そちらではダメだ ── 一方の意見ばかりまくしたてる強引なマネジャーもいる中で、判断によるプラスマイナスをしっかりと吟味して決めようとしているように見えたから。
しかし、彼は、
「一方で、まず評価装置に投資して、この材料に可能性があるかどうかを見極めることは、『時間』という最大のリソースを節約することになるね」
と明快に言う。
じゃ、その装置、買うのかな、でもな……と思っていると、
「一方で、予算は限られているからね、他に提案されている設備の必要性と比較する必要がある」
── ごもっともです。
そしてその『他に提案されている設備』についても延々とメリットディメリットを議論し始まる ── 途中に必ず、『一方で』を挟みながら。
そして結局、彼のさらに上司のひと声や、部下の中で声のでかい人間の主張に従う。
こうした場面に何度も出くわすと、あれれ、と首を傾げるようになる。
この人、結局、決められないヒト ── 責任を持って判断できないヒトなんじゃないか???
私はひそかにこの人に『一方で』というニックネームを付けた。
『一方で』さんは順調に出世したが、当然ながらある段階まで行くと、彼自身が判断し、決定しなければならない場面が出て来る。
おそらく、そこでトップマネジメントの目にもわかってしまったのだろう ── そのピーク地位にとどまる時間は非常に短かった。
私はリタイア後、たとえば時事ニュースの解説などでこの言葉:
一方で
が登場すると、彼のことを想い出してしまう。
あの『一方で』氏は、
『口ぐせ』が『思考法』に乗り移ってしまったのだろうか?
それとも、
『思考法』が『口ぐせ』として表面化していたのだろうか?