銃の問題 ── 日常と非日常、そして(エッセイ)
とんでもない事件が起きた。
「日本では考えられない」
昼のワイドショーで、私があまり好きではないコメンテイターが連呼していた。
事件についての悲嘆・悲憤は、もう既に多くの報道でなされているので書きません。
改めての《銃》という、危険な道具についての思いです。
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私は、アメリカの田舎に住む知人の家の庭で《銃》を撃ったことがあります。
庭といっても、林を含む広大な空き地のようなところです。
木箱の上に空き缶を立て、離れたところから小さなピストルで撃った。
手に反作用の衝撃はあったけれど、弾丸は実に簡単に発射され、実に簡単に缶に穴が空いた。
「これは、……危険なものだな」
その時、心の底からそう思いました。
ナイフならば「接近」しなくてはならないが、銃は相当離れたところから、他人を殺傷することができる。
日本でSPの人たちが想定していた「危険」も、おそらく「接近」してのものだったろう。
誤解を恐れずに表現すれば、
《殺意》などなくても、誰かを殺傷できてしまう。
とその時、感じた。
誰かを殺傷するのに、《殺意》すら必要ない。
これほど危険なことはない。
銃を貸してくれた知人は、子供の頃、《銃》を持って学校に通ったという。そして、帰り道にウサギを見つけると撃ち殺して持ち帰り、夕食の足しにしたそうだ。
その是非はともかく、彼にとって、《銃》は《日常》の中にあった。
日本のように、《銃》が《非日常》である社会、けれども入手が不可能ではない社会 ── それはまた、《異質の怖さ》がある。
**別のシーンになります**
アメリカの会社で働いていた頃、ある月曜日に社内にアナウンスがありました。
《会社に銃やナイフのような危険物を持ち込まないように》
というお達しでした。
なんでもその会社では、時折、週末に抜き打ちで全社員のオフィスの引き出しを(鍵のかかっているものも含めて)検査するのだという。
そうしたら今回、銃や大型のサバイバルナイフが見つかった、というのです。
鍵のかかった社員の机を勝手に開ける、というのにも驚いたが、そこに銃や大型ナイフを持ち込んでいる社員がいるというのには、さらに驚いた。
日本の会社で工場実習をした時に、生産現場のメンバの中に、ロッカーに常に釣り竿を入れており、夜勤明けにそのまま釣りに出かける人をよく見かけました。
── それと同じようなもの、つまりは《日常》なのでしょうか。
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さらに言えば、《銃》は離れたところから人を殺傷できるが、通常、対象となる人を《認識》した上で引き金を引く。
しかし、近代戦に使用する多くの兵器は、対象を肉眼で認識する必要すらないまま、人を、しかも大量に殺傷する。
現在起こっている、そのような、
個々の殺意はない、あるいは希薄な状態での、大量殺戮について、改めて思いました。
チャールズ・チャップリンが「殺人狂時代」の中で言っています。
「1人を殺せば犯罪者だが、100万人殺すと英雄になる」
テロリストの首領である《彼》の動機もまた、《英雄》になることなのでしょう。