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セラピーとしての子育て

私の実家は非常に貧しかった。どれぐらい貧しいか書き始めると虚しくなるのでやめるが、一応お風呂とトイレとガスコンロのある家には住めていたので、爪に火をともすより少しマシ、というような生活であった。

そのため、小さい頃からあまりおもちゃや可愛い服を買ってもらえた試しがない。
もちろん据え置きのゲーム機など論外である。

また、家族でどこかに出かけたような記憶もほとんどなく、泊まりがけの旅行に行ったことなど一度もないような気がする。
新幹線は修学旅行で初めて乗った。
飛行機は大学生の時初めて乗った。

母は、私が乳幼児の頃から休みの日に公園に連れて行くこともなかったと言っていた。
お金がないなりの経験をさせてやろうということを考えつかないほど忙しなかったのかもしれない。
幼稚園の先生からは、足腰が弱いのでもっと公園に連れて行ってあげてくださいと言われていたらしい。よほどのことである。

そんな私が、つい最近出産して、可愛い可愛い子供を育てるようになった。
夫婦で"普通に"働いているため、普通に所得税を払わされており、私の実家よりはいくばくかお金がある。

昔につましい生活を送っていたものだから、自分の子供にもあまりお金をかけずに過ごす、ということはなく、むしろその逆をいってしまっている。

可愛い服を見かけたらすぐに買う、子供の絵本、図鑑や欲しいおもちゃはなるべく買う。
子供の興味のありそうなイベントや旅行先にどんどん連れて行って、いろんなことを経験させる。
というような、昔の私では到底してもらえなかったことをたくさんして、その結果家計が火の車になっている。金勘定よりも子供を優先してしまうのである。
夫にはかなり白い目で見られてしまっている。ごめんね。

そこまでする理由を自分なりに考えてみたが、おそらく私ははほとんど強迫観念のような気持ちで育児をしているところがあるように思う。
子供にたくさん経験させなければ、欲しいものを与えなければ、教材を適切にやらせなければ。
そうすれば子供はきっと、幼少期の自分のように悲しい気持ちにならないのではないか、と。

そう、私は幼少期、悲しくて、欲求不満であった。
欲しいものが簡単に手に入る、みんなが持っているものを当たり前に買ってもらえる。あるいは休みの日に旅行に行ったり、お年玉をたくさんもらう子がとても羨ましかった。
とても羨ましく、妬ましく、喉から手が出るほど欲しかったのである。

適切な時期に適切に欲求を満たしてもらえなかったという思いがずっと残っていて、その結果こんなこと(お金がないのに子供に色々与えてしまう)になっているような気がする。

子供に与える色々なもの、ことを通じて
昔の自分の欲求を間接的に満たすことによって、きっと癒されたいのだと思う。

事実、子供が旅行先などで楽しそうにしているのを見ると私も本当に嬉しい。本当に幸せである。
もちろん子供が可愛いから嬉しくて幸せなのだが、きっとそれだけではなく、小さい頃の自分も一緒に体験している気持ちになるからだろう。
心の中の、子供と同じ年の私が、擬似的に子供と一緒に体験して、そして一時的にでも満足した気持ちになれているように思う。
そういう意味では、私にとっては、子育てはある種のセラピーに近い。

不思議なことに、子供に可愛い服を買ったりしていく中で、自分もおしゃれをしていいんだということにも気付いて、遅ればせながら自分の好きな服を(こっちは)少しずつ買うようになった。
アクセサリーも安いものを少しずつそろえて、20代の時に憧れていたような可愛い服を着ることを自分に許していくようになった。

子供を大切にすることで、自分も大切にできるようになった気がする。

昔の悲しかった気持ちが本当の意味で満たされることはきっとないのだろうけど、
それを埋めるように何でも買ってどこへでも行く自分が、早く満足できたらいいなと他人事のように思いつつ、
夫に怒られない程度にこれからも子供と一緒に楽しいことをたくさんしていきたい。

もちろん、子供と自分が違う人間であり、私の意見を押し付けることはしないようにしつつも、あと子離れは早めにしたいなと思いつつも、あとは必要以上にものを与えないように気をつけようと思いつつも、

子供のためではなく、自分のためにそうしていきたいと思っている。

おわり

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