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New Lanarkのmuseumのこと

イギリス旅日記の続きです。
一つ前の記事は、New LanarkのMuseunのことを書く、と言っておきながら、グラスゴーの路上生活のお話になってしまったので、今回こそ、New Lanarkのお話をしようと思います。

とはいえ、路上生活や物価高騰やネオリベラリズムの問題と、New Lanarkの歴史は、全く無関係、というわけでもないのだろうと私は思います。
ひとまず、New Lanarkという場所がどんな場所なのか、ということからお話ししましょう。

Lanarkという町は、前回も書いたように実際に現在も存在していて、スコットランドの人口9050人くらいのとても美しい町です。
New Lanarkは、Lanarkの駅から徒歩で、、多分30〜40分くらい、車で15分くらいのところにあります。museumと書いていますが、かつてあった、New Lanarkという町を、修復して、街全体が資料館のような施設になっているという、とても美しくて不思議な空間です。ホテルや喫茶店も併設されていてます。
ユネスコの世界遺産にも登録されているそうです。

New Lanarkという町は、1785年にDavid Daleという人によって造られました。「造られた」というのは、もともと人々が住む町があってそこに産業が生まれた、のではなく、工場(主に羊毛工業、後半は綿工業)を中心に、そこで働く従業員が住む住宅が一つの町として造られた、ということです。
1780年代というのは、イギリス産業革命の時代であって、こういった、銀行家や起業家によって、工場(産業)を中心に造られた町というのがあちこちにあったようです。
Dale氏は、もともとはグラスゴーの小さな雑貨商人の生まれだったようですが、その後、銀行家、起業家として成功しました。New Lanarkの他にも、同じような興業をいくつかしていたようです。

Dale氏はそういう意味で、産業革命において、いわゆる「資本家」の側の人ではあったのですが、信仰心の篤い人でもあったらしく、慈善活動、というか、労働者の生活環境や教育、公衆衛生に対してもしっかりとした「父権的(paternalistic)」な経営をしていたそうです。
museumでは、それらの記録を元に再現された、当時の人々の生活の様子を、修復された街並みの中に見ることができます。

この「父権的(paternalistic)」という言葉は、New LanarkのHPやパンフレットに書かれている言葉をそのまま使っているのですが、普段、私が携わっている分野では、「paternalisic」という言葉は、「権力的」「支配的」といったネガティブなイメージの文脈で使われることが多いです。
でも、どうやらここではそう言った否定的なイメージ、というよりは、労働者全体の善き父親として、世話をしていた、と言ったような意味で使われている、、ような気がします。

paternalisticという言葉を、ここではそこまで否定的な意味で使っているわけでもないのだろうな、、と私が感じたのは、実際にその場所に再現されている、当時の労働者の人々の暮らしの様子が、現代のストリートで見かけた路上生活者の方々の様子より、はるかにマシに見えたからかも知れません。

詳しくは、上の公式HPを見ていただければ書かれているのですが、例えば労働時間は平日は朝の6時に起床し、夜の7時まで仕事、夕食の時間は1時間、と言った感じで、働き詰めだったようですが、一方で、食事は当時としては(現代の路上生活の人々と比較しても、、)十分な量と質があったようで、野菜や肉なども提供されていたそうです。

また、休日には教会へ行ったり、余暇の時間に読み書きや音楽を楽しむ余裕もあったようです。学齢期以上の子供は、日中は工場で働いていたようですが、幼少期にはおそらく幼稚園のような感じで、集団保育がされていました。

また、学齢期以降の子供達は、昼間は工場で働き、夕方から学校で勉強するという、、なかなかハードなスケジュールの生活だったようですが、、(まあでも、現代の日本の子供たちも、8時間近く日中の授業を受けた後に部活動をしてバイトをして予備校に通って帰宅後に課題をこなしたりしているわけですから、、それが逆になっただけ、と考えるとそうなのかも知れないですが、、)
当時はまだ、そもそも「教育」が必要、という考え方自体が一般的ではなかったのだろうと思うので、働けるようになったら働くのは当たり前のこと、と考えられていたのだろうな、、と思います。

(、、しかし、、人間というものはなぜこうも、、より多く、より早く、詰め込み、溜め込みたくなってしまう、、生き物なのでしょうか。。不思議です。。)

それはさておき、Dale氏は孤児や、丁稚奉公に出された子供達を引き取り、労働させつつ、教育や世話を施していたそうです。

うむ。。

イギリスという国は、とても美しいです。
特にイングランドの中部からスコットランドの辺りは、小高い緑の丘がいくつもいくつも広がっていて、白いモコモコの羊たちが無心に草を食んでいる景色は、、可愛らしくて平和です。ところどころに点在する石造りの家や教会は、私たち日本人からしたら、おとぎ話の世界みたいです。

、、でも、、例えば、日本の東海道新幹線の車窓に見えるような、市街地があって、工場地帯があって、果物や野菜が実る畑があって、お茶畑があって、水田があって、、と言ったような、、そういう、温暖な気候の土地にある豊穣さ、みたいなものは、、薄い気がします。
全体的に、日本の東北地方の、、何度もの飢饉を経験してきた山村みたいな、、何かそう言った、雪国の厳しさ、みたいなものを感じます。

そいういった厳しい環境にあって(勝手に決めつけちゃっていてますが、、)、一方で古くはローマ帝国、フランスやドイツなど、、度重なる侵略の危機から自分たちの国を守りながら、同時に弱い人々の現在の生活を守りつつ、より豊かな生活、より強い組織や国を造っていくためには、paternalisticなリーダーによって労働力を総動員して「生産」していく必要があったのだろう、、と。
なんとなく、、思いました。

中途半端な終わり方ですが、今日は一旦ここで終わっておきます。

なんというか、「文章」というものを書き始めると、(特に「論文」的なものをお作法に従って書くことがヨシ、とされている文化の中に浸かっていると、、)すぐに、何か普遍性に結びつくような結論めいたことを書かねばならないような気になるものですが、そう言った「結論」めいたものに収めようとすると、だいたい、「ネオリベラリズム批判」だの、「家父長制批判」だのと言った、初めからどう考えても明らかになっている「大理論」の中に収めたくなってしまいがちであって、私は個人的に、(と言っても私も結局そういうことをしてしまいがちなのですが、、)そういう文章を読むと、「うん、、知ってた、、」って、「そっ閉じ」したくなっちゃう、、天邪鬼なところがあったりするので、、

アメリカのミニマリズム時代の短編小説に、オープンエンディング、というのがあって、一時期日本の小説や映画なんかでも流行ったんじゃないかと思いますが、(まあ、それはそれで、突然終われば「芸術的」っていうのも、、短絡的よな、、と食傷気味にもなったりしますが、、)そんなのがあって、私はでも、結局日記も文章も、生真面目に考えればオープンエンドにするしかないものなんじゃないかと思っているフシがあります。

そんなわけで、、

つづく。


と、終わろうと思ったのですが、そうだ。
最後に、further informationです。
New Lanarkに関して、上に貼っているHPの中には、resarch情報のページなどもあって、当時の人口の統計や、Rbert Owenという2代目の経営者の記録などの資料が公開されています。ご興味のある方はぜひぜひ。面白いです。

また、この記事のサムネイル?というのでしょうか?トップに貼っている画像は、museumの屋上庭園の様子です。
当時、労働者の方々が休日に余暇活動などをされていた場所でもあったらしいのですが、私が訪れた日は11月の平日だったので、ほとんど観光客がいなくて、つまり私以外に誰もいなくて、冷たい空気に青く澄んだ青空と紅葉と石造りの建物のコントラストが、、何か異世界に紛れ込んでしまったかのような、、
ちょうど、その前に同行者の先生と村上春樹の小説のお話をしていたのもあって、(羊もいたし、、)「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の世界に入り込んでしまった、、みたいでした。

、、影はちゃんと私の足元に付いていました笑。




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