まなざしのその先に
「まなざし」について、ときおり考える。きっかけは、高文祭――全国高等学校総合文化祭――写真部門の展示を鑑賞したことにある。
数年前のことだ。縁あってその会場を訪れていた。いわば、高校写真部の全国大会である。各都道府県の代表作品が、大きな体育館いっぱいに展示されていた。全紙サイズのパネル写真は迫力がある。まるで、ひとつひとつが異なる世界を見せる窓のようだった。それぞれに違った空気が閉じ込められて、そこにある。
景色の美しさをとらえた写真、生き物の生きるさまをとらえた写真、友人や家族、そこに暮らす人々をとらえた写真…テーマは多様である。作品として作り込んだものもあれば、偶発的に瞬間を切り取ったものもある。
私は、一枚の写真の前で立ち止まった。父親と思しき男性の背中越しに撮影された、満面の笑みを浮かべた少女の写真だ。片腕に抱えられた姿勢である。街中での、よくある光景。しかし、屈託なく笑う、信頼しきった彼女の表情、その一瞬が切り取られてここにある。
とても不思議な感覚だった。それは、写真作品に撮影者の眼差しを感じる初めての経験だった。
そのようにして一度回路が通じると、どの作品も実に雄弁だった。愛おしむように、触れるように、その景色を手折るように、瞬きに閉じ込めるように、撮られた写真の数々。そのシーンを切り取った撮影者の心に思いを馳せる。共に並んで、その景色を見ている気持ちになる。
被写体となったひとたちのレンズに向けた眼差しにもまた、胸がひりひりした。目の奥の、底のところでお互いに見つめ合う感覚。
特に、誰かを見つめる誰かの写真は、眼差しにとらえられたその眼差しに胸がいっぱいになった。そのひとが見つめるそのひとの大事なひと、もの。それをとらえる撮影者の目。もう、涙がぽろぽろこぼれてしまい、どうしようもなくなった。
高校生の、遠慮のない熱いエネルギーが撮らせた作品もあっただろうと思う。純真にシャッターを押したら撮れた作品もあるだろう。ただ、もう、そこに居合わせて、その瞬間を捕まえたいと思ったその気持ち、それを見つけて見つめた眼差し、それがすべてで、私は言葉を失った。直接に心をつかまれ、揺さぶられ、涙になってこぼれていくに任せるほかなかった。
数年前、その日から、私はときおり立ち止まって考える。まなざすこと。――それは書くことにつながっている。