【連載小説】もし、未来が変えられるなら『1話』
『もう、戻らないと思っていた』
僕は、もう壊れてしまって、元には戻らないと思っていた。もう、いくとこまでいってしまった。もう本当に取り返しがつかない。そう思っていた。
薬がトラウマで、入院中は全く薬を飲まなかった。幻覚が出ていて、一度読んだ文字が、もう一度見ると、違う文字になっていることなんて当たり前のようにあった。でも入院する前、読んだことのある小説が、全く違う内容に見えて恐怖したことがあったから、そんなこと笑っちゃうくらい大したことないことだった。まただ。世界は壊れている。そう思っていた。
夕飯の時間。食べるのがつらすぎた。入院中の食事は、皆で集まってホールで食べる。ホールは食器に箸が当たる音以外は無音で静まり返っている。日本食の匂いが、鼻を掠める。僕はそのホールいっぱいにいる患者の食べたもの全てが、僕の胃の中に入ってくる幻覚に囚われていた。だからお腹がいっぱいになる前に、慌てて食べて、自分の病室に逃げ込んでいた。周りの人も同じ幻覚に囚われているように見えていた。だから僕が慌てて食べると、皆、苦しそうにしているのが目に入るのが嫌だった。
病室で自分の顔を鏡で見る。頬はこけ、すごく痩せていた。何もすることがない。一冊だけ持ってきた小説を読むことくらいしか。でも読むのも重労働だ。少し読んだだけで生気を抜かれたように疲れる。
病院には図書室がある。僕がそこで本を読もうとすると、周りにいる患者が、苦しみ出す。僕が頑張ると、皆、苦しむのだ。とてもじゃないが、我慢して読んでられなかった。
夜、就寝後、看護師が見回りに来る。でも僕は、極度の過敏な状態で、少しでも音が立つと、飛び起きた。看護師もできるだけ音を立てないように、入ってくるようになったのだが、それでも僕は飛び起きた。看護師たちはその僕が怖かったのだろう。やがて僕の部屋には巡回に来なくなった。
僕の主治医とたまに問診をする。主治医も僕を怖がっているように見えた、僕をできるだけ避け、僕が的を得た質問をするのを恐れていた。(恐れているように見えた)僕と一番接する人だからだろう。僕と接するとまるで体力を吸われるかのように主治医はみるみる痩せていくように見えた。
シャワーを浴びるのが、つらかった。洗濯して、乾燥機にかけるのは何とかできた。僕を訪ねてくる人は、両親しかいない。でも父親も僕を怖がっているようだった。怯えながら、焦点が定まらず、僕の顔を見ないで、僕と話した。今ではこれが幻覚なのか、本当にそうだったのかわからない。この頃、僕が見ている世界は、完全に壊れていた。ずっと耐えていても、薬を飲んでいないからなのか、治らなかった。でももう入院しすぎた。両親ももう退院した方が良いと言った。僕はほぼ回復せずに退院した。入院するきっかけは、両親がおかしくなったと思ったからだ。だから、本当は家に帰りたくなかった。家に帰って何日かすぎた。
今日は通院の日だ。僕は支度をして、病院に向かう。主治医は変わっていた。その主治医と話をして、何も変わっていないことに絶望した。問診室を後にして、待合室で、このまま治らなかったらと考えて、つらすぎる自宅での生活を思い、気づいたら号泣していた。看護師さんがそんな僕に声をかけてくれた。すごく優しい人だった。僕はその人の言葉に救われた。何を声かけられたのかは、今となると覚えていない。でも、その人は今でも僕の恩人だ。
その人に声をかけられてから、僕は変わった。ずっと避けていた薬を飲むようになったし、デイケアに行くようになった。そこで、九十九渚(つくもなぎさ)と出会う。渚はすごく大人しくて、素朴な顔の子で、腰まで伸びた髪の毛が綺麗な子だった。デイケアで僕はよく渚の隣の席に座った。渚はよく絵を描いていた。僕も絵を描くのが好きだったから、渚の隣で僕も描いた。渚は漫画のキャラクターを模写していた。僕も漫画が好きだったから、真似をした。僕は渚に一目惚れだった。すごく可愛い子だと思った。でもどこか影のある、そんなところも魅力的に感じた。渚は僕の蘭という名前を呼んでくれない。僕の名前は庵蘭(いおりらん)だ。別に名前を呼んで欲しいわけじゃないけど、どこか遠く感じた。でもそれには理由があることを後で知る。渚はあまり人と話さない。でも仲のいい人にだけ、無邪気に話をしている。僕とは少しずつ話してくれるようになった。ちょっと物足りないけど、それでも良かった。
「渚ちゃん、今日は何描いてるの?」
「え? 内緒」
そんな程度。なぜこんな会話が嬉しいのか、自分でもわからなかった。僕は今年で31歳だ。渚は若く見える。何歳なんだろう? 女の子に年齢を聞くわけにもいかず、わからなかった。渚がなんで僕としか、男性と話していないことに気付かなかったんだろう。渚は僕以外は、女の子としか話していなかった。元々、あまり話さない子だったから、全然気付かなかった。ということは、僕に心を許しているってこと? 僕は思っていたより渚に好かれている? 蘭よ、慌てるな! あまり過信するのは良くない。そう自分に言い聞かせる。でも渚くらい可愛かったら、渚に言い寄ってくる男も少なくはないと思うのに、渚の隣の席は、いつも空いていた。だから僕はいつも渚の隣に座った。本当はデイケアなんてもっと退屈なものだろう。でも、僕は渚のおかげで、デイケアが楽しかった。僕は、渚以外の女の子に好かれてデイケアで告白されることもあった。でも渚が好きだからと断った。その頃の僕は渚しか目に入らなかった。渚が愛おしくて仕方なかった。だからもっと渚と仲良くなりたいと願った。その頃の渚が、僕のことをどう思っていたのか知らない。でも僕はそんなことどうでも良かった。好きだから一緒にいたい。それで良かった。