3分で読めるホラー小説【山奥の宿】
山深い場所にある古びた旅館に泊まることになったのは、偶然見つけた観光案内のパンフレットがきっかけだった。美しい景色と静かな佇まいに惹かれ、日々の喧騒から逃れたくなった私は、予約を取り、その旅館へと向かった。
到着してみると、パンフレットで見た以上に不気味な雰囲気が漂っていた。周囲には深い森が広がり、風が木々をざわめかせる音だけが響いていた。玄関をくぐると、年配の女将が無言で出迎えてくれたが、どこか影のある表情で目を合わせてくれない。
「今夜は他のお客様はいませんので、どうぞごゆっくり……」
女将の声はかすれており、どこか冷たい響きがあった。私は何となく不安を感じつつも、案内された部屋で荷を解いた。
その部屋は静かで、木の香りが漂っていた。古びてはいるが清潔感があり、窓の外には満天の星空が広がっていた。少し安堵して布団に横になると、疲れからかすぐに眠りに落ちていった。
だが、夜が更けた頃、どこからか「ざわ……ざわ……」と耳を劈くような音が聞こえ始めた。最初は風の音かと思ったが、どうも人の囁き声のように感じられる。恐る恐る布団から顔を出し、耳を澄ませてみたが、声の主ははっきりと分からない。
「ざわ……ざわ……来るな……戻れ……」
声は断片的に聞こえ、次第に重く低い音に変わっていった。まるで何かが部屋の外をうろついているかのようだった。不安に駆られ、私は障子の向こう側を見つめたが、目に映るのはただの暗闇だけだった。
やがて、障子が静かに開く音がした。息を飲み、恐る恐るそちらを見やると、薄暗い廊下に白い影が立っていた。それはぼんやりとした輪郭で、年老いた女性の姿のように見えた。その顔はぼんやりとして見えず、ただこちらをじっと見つめているように感じた。
「あの……何かご用ですか……?」
かすれた声で問いかけると、影はふっと消えた。驚きと恐怖で心臓が早鐘のように打ち始め、体が硬直して動けなくなった。その後、再び「ざわ……ざわ……」という囁き声が響き始めた。今度は耳元でささやかれているような感覚で、冷たい息が首筋を撫でる。
恐怖が限界に達した私は、布団から飛び起き、荷物をまとめて部屋を飛び出した。廊下には誰もいない。私は階段を駆け下り、玄関へと急いだ。だが、そこには女将が無言で立っていた。
「お逃げになるのは無駄ですよ……ここに足を踏み入れたら、もう出られません」
女将の言葉に背筋が凍りついた。その目は黒く沈み、底なしの闇が広がっているようだった。私は叫び声を上げ、必死に玄関の扉を開けようとしたが、扉はびくともしなかった。
後ろを振り返ると、先ほどの白い影がゆっくりとこちらに向かってきている。私は混乱の中で必死に逃げようとしたが、足が鉛のように重く、一歩も動けなかった。白い影は次第に近づき、その顔が見えるほどの距離に迫った。そこには、歪んだ笑顔と空洞のような目が私を見下ろしていた。
次の瞬間、視界が真っ暗になった。
気がつくと、私は旅館の部屋の布団の上で目を覚ました。すべてが夢だったのかと安堵しかけたが、窓の外に目を向けると、薄暗い霧の中に女将と白い影がこちらをじっと見つめていた。彼らの唇が「次はお前だ」と動いた瞬間、再び意識が遠のいていった。
誰もその旅館に泊まった私を見た者はいないという──
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