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【掌編小説】女帝

テーマ:「都」 ジャンル:歴史

 天皇であるわたくしは、誰よりもつよくなくてはならない。
 人々に、畏れられ、敬われなければならない。天照大神のように。
「古きを壊し、乱を起こすのは、おのこです。けれど、そこから新しい礎を築くのは、おなごの方が向いているのです」
 輿に馬を横付けして右大臣・藤原不比等が、白皙な頬を動かして言った。
 元明は静かに息を吐く。
「礎を築いた賢く決断力のある女帝は、祖母の斉明天皇や、夫の母である持統天皇でした。わたくしは、彼女たちの足元にも及ばない」
 げんに、わたくしの心はまだ、揺らいでいる。
「寧楽(なら)への遷都は、正しいことです。のちの民草は今上の功績を称えるでしょう」
 不比等が断言した。
「わかっています。飛鳥はあまりに狭い」
 元明は、女の身で天皇になり、遷都の決断をしなければならなくなった己の運命の不思議さを想った。
 夫の草壁が生きていれば、彼が天皇になり、遷都していただろう。わたくしの役目は、草壁の手を握り、あなたの決断は正しいと、励ますことだったはずだ。
 草壁はやさしい男だった。
 彼のことは少女の頃からよく知っていた。一つ歳下の草壁は、元明にとって庇護すべき弟のような存在だった。彼に天皇が務まるだろうか、と幼な心に心配していたものだ。
 草壁の肩は薄く、瞳はいつも憂えていたから。
 結局、皇太子のまま、二十八の若さで身罷ってしまった。重い衣を脱ぎ捨てるように、あっけなく、天に翔去った。
 骸は、飛鳥の真弓丘陵に眠っている。
 草壁は今、どんな気持ちでいるだろう。自分を置いて、新しき都へ移ることを決めたわたくしを、恨んではいまいか。骨となった指を持ち上げて、わたくしを呪ってはいまいか。

――飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ

 口から歌がこぼれ落ちた瞬間、不比等が元明の乗った輿を止めさせた。
「これで古き都とはお別れです。ご覧ください。ここからは、飛鳥の里がよく見えます」
 御簾が上がり、天の香具山が、畝傍山が、元明の目と胸に飛び込んできた。途端に押え切れない慕情が込み上げる。ああ、飛鳥。飛ぶ鳥の明日香……。
 元明は少女に戻って、飛ぶ鳥のように飛鳥の里を翔けた。香具山を越えて、斉明の作った奇怪で滑稽な猿石を撫で、聖徳太子の生まれた橘寺をくぐり抜け、甘樫の丘を翔け上がった。
 わたくしは、この里に棲む素朴で古き神々と、ここに眠る祖先の御魂に護られて育った。なのに──。
 だれかが少女の手を握った。驚いて見ると、少年だった。憂いをたたえた瞳の少年は、少女と目が合うと安心したようににっこりと笑い、手に力を込めた。
 少女も微笑もうとした。
 その時、御簾が下りた。

 人と神々とが共棲する時代は、終わった。
 たった今、それがわかった。
 古い都から、新しい都へ遷ろう。人のたくさん集まる、唐の長安のような都を創るのだ。
 そこでの神は、天皇──わたくし──だ。
 女帝であるわたくしは、誰よりもつよくなくてはならない。
 人々に、畏れられ、敬われなければならない。天照大神のように。
「発ちなさい」
 少女は女帝に戻っていた。                         

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