"BLACK SHEEP TOWN"感想…というよりは今の気持ち
人は、忘れる生き物だから、今の感情を。
瀬戸口の好きなところ、それは、人々がそれぞれ自分の世界観を持っていて、その世界観が、その人の幸せを定義する上、その世界観はなんだかんだで、『世界をどうしよもなく辛く苦しいと思いながらも、美しく生きる価値があるもの』として定義しているところだと思う。争いは、必ずしも利害が対立するから起きるわけじゃない。世界観が違うから、起きることだってある。そして、誰もが、精神のどこかしらがぶっ壊れている。でも、みんながどこかぶっ壊れていることは、結局、みんながみんなぶっ壊れているから、それは転じ転じれば普通のことで、だから、みんなが、普通に、辛くて、普通に苦しい。だから、これ以上誰にも傷ついてほしくないのに、みんな傷ついていく。
『世界をどうしよもなく辛く苦しいと思いながらも、美しく生きる価値があるもの』
なんてのは、当然のことながら呪いだ。
痛々しい、苦痛に満ちた世界が、それでも憎みきれず。過去にあった一瞬の煌めきだったり、諦めきれない儚く淡い希望だったり、あるいは、自己満足と解った上での、一つの復讐だったり。美しく、生きる価値があることなんて一瞬にすぎない。
あるいは、生きる意味がない!なんて言い切る人もいるかもしれない。でも、それなら死ぬ意味はあるの?と問いかけて、それもないな、と納得するかもしれない。
そして、当然ながら、生きる意味がある!と逆に、断言しきれる人間も、少なからず存在する。そこまで強い希望の意思も、世界は苦痛に満ちている、という言葉と同じくらい呪いだと思う。最近の自殺学研究では、ポジティブ思考批判があるらしい。ポジティブに生きないから死ぬのだという理論は、あまりにも単視野的だ。そもそも、辛いからポジティブに生きられないのだ、という批判も、この文脈なら全うに感じれる。そんな呪いを振りまきながら生きる人間も、また、壊れているのだ。
ただ、そんな人達が世界には存在して、日々を生きている。Black Sheep Townに登場する人々は、少し極端な存在ではあるし、僕たちの日常生活よりずっと死が身近だし、僕らを侵す流行病とは違う病があるのだけれども、それでも十分等身大の世界に感じられる。その世界で描かれる偶像劇は、人と人、立場と立場、利害と利害、そして世界観と世界観のぶつかり合いだ。僕らの日常と同じように。ただ、世界観が違うから、利害が対立していても、人は協力し合うことだってできる。世界観が違うから、表面は理解できなくても、根本の部分を理解してやれたりする。それらを、素直に、それが愛でしょ、といえたら美しいけれども、ちょっとそれだけじゃないと思う。でも、そうじゃなくても、僕はそれを美しいと思った。
人は生きてる。人は死ぬ。多くの人には明日があって、死人は全て昨日の人だ。覚える忘れる自由は僕たち生者が決めることだ。かつてキリスト教の問答で、『生者と死者、どちらが多い』との問いがあった。正解は生者なぜなら『死者は存在しないから』。それがどういう意味かの解釈はキリスト教の偉い人に任せるけど、この文脈では、こうだ。死者について考えすぎたら、頭がおかしくなるので、止めたほうがいい。でも、僕らは死者について考えるのをやめられない。メメント・モリ。君、死を思うたもうことなかれ。
この物語は一つの街を巡る物語だ。かつての『街』並に街の話だ。Blacksheepは英語で傾奇者の意味をする。Swansongが『断末魔』を意味したように。ここから導き出すべき結論は、私は大嘘つきということだ。傾奇者の街。てやんでぇ!という江戸っ子が出てきそうだが、実際、江戸の人情モノとヤクザものの気配はある。あんたさん、仇討ちなんて止めなさいよ、みっともない。忠臣蔵かな。そうかもしれない。江戸っ子は仁義を尽くす話が大好きだからね。
プレイ時間は16時間。たぶん最速に近いタイムだと思うし、普通にやったら20-40時間くらいかかるかな、と思う。文章は読みやすくないし、体力を持ってかれる。楽な体験ではなかった。
そもそも瀬戸口が人を選ぶから。この作品も結構、人を選ぶと思う。少なくとも、こんなにメインキャラクターがちゃんと死ぬ作品は、近年稀に見たきがする。きちんと一人ひとりに感情移入していたら、あまりにも途中辛くなりすぎて、ゲームをやる手が止まって、スーパー銭湯に行って心を回復しなければならなかった。
元々、SWANSONGも鬱ゲー(私自身は鬱ゲーだとは思わないけど、暗いゲームであることは確かだ)扱いされているし、瀬戸口の過去作品が好きな人ならおすすめできるけど、そうじゃない人は、体験版をやるべきかな、と思ったりする。合わなかったら、自分には合わなかったでいいんだ。そういう作品だから。
でも、合う人だったら、この作品は、唯一無二の体験を与えてくれる。きちんと作られた群像劇のザッピングゲームっていうのは、何時だって心が踊るものなのだから。ただ、この作品はSFではないし、ミステリーでもない。全ての問に答えが与えられる訳では無い。だから、そういうのを期待して読み始めると、そういうのがないから、不満感が残ると思う。
このお話は、ただ、人が生きて、人が死んで、それでも人が生きる。そういう話だ。全ての登場人物は、彼らの世界観を…彼らの仁義を抱えて生きて死ぬ。それだけでいいんだ、と思えるのならば、この作品は貴方の為のものだ。
そんな感じ。まとまった物語ではないし、それに対してまとまった文章を書くつもりもなかったので、とりとめのない形になってしまった。でも、そういう作品だし、たまには、こんな感じに、感情をただ書き残してもいいだろう。
以下、ネタバレ。
プレイ途中に書いたことなのだけれども「何時もの瀬戸口といえば何時もの瀬戸口なのだけれども、最低最悪だと思っていた人たちと、長く付き合ったせいで、この人達にも幸せになってほしいと、願うようになってきた。」と思ったのが、やっぱり、すごいよなって。
最初あまり好きでなかったキャラの代表は見土道夫と灰上姉妹。灰上姉妹は不気味で行動原理もよくわからず、途中、「あまりのもYS陣営を強くしすぎたから、サーシェンカ陣営にもキャラを足さないと」と思って出てきたキャラかな?っていうような気はしたし、正直、途中の路地(記者)との何度かの交戦も、なんかちょっとDisengageの理由が無理やり感があったので、なんだかなー、と思ってしまったものの、彼女らの主観が入り始め、ヘドロ団地の住民とのかかわり合いと彼らからの信頼の厚さ、そして彼女らの世界観がわかり始めるにつれ、目が話せなくった。最後の、亮との対峙において、「誰も味方なんていなさそうだから、わたしたちくらい味方になってやったっていいんじゃないか」の言葉は、まさしく彼女たちがヘドロ団地の信頼を勝ち得た理由で、この子たちに僕らが、思い入れた、理由なので。そして、最後の最後で、「僕だって、誰も死なないで済むなら、その方がいいんだ」という言葉に、他の誰一人として彼に対してかけられなかった、「知ってるよ」という言葉を、彼女たちがかけたのは、すごい、救いだな、と思った。世界観があまりにも違いすぎるから、彼女たちだけが、彼の孤独に、きちんと触れられた。(とはいえ、最後以外でサーシェンカに味方する理由はまだちょっと納得のいかなさがある。感情の部分で)見土も、かなり序盤で出てきたキャラだからこそ、亮との対比で、現実を見ず、グレートホール饅頭の話を延々と語って、こいつなぁ、と思ったものの、本当にいいヤツであることを見せつけ続けられ、仕方ないから、と道を踏み外し続けるサマを見せられると、むしろ、シウとグレートホール饅頭屋をやってくれ、頼むから、という願いが強くなっていった。
ちなみに、みんな好きだけど、特に好きなキャラは主観キャラだと太刀川(ドクター)、能美(看護師)、松子。次点で、江梨子。それ以外だと、シウ(妹)、馬明、エリー・ホワイト、アナ・フェルナンデス、アレクセイ(殺人鬼)、エリオット(護衛)あたりかな。主観キャラクターは、どうしても単純に尊敬できた人たちを好きになってしまった感はある、太刀川さんも能美さんも松子もすごい人としてちゃんとしている。特に、普通の人代表感があった能美さんが死んでしまった時は、すごく悲しかった。B棟はサーチ・アンド・デストロイだって、なった時に、死ぬのかな、と思って、やっぱ生かしてくれるのかな、と思って、殺されたので、非常に感情のジェットコースターだった。江梨子は前述の理由。双子の頃は微妙だったけれども、一人になってからの江梨子は、本当にいいキャラしていて、一番近い位置に居たと感じれた。サブキャラクターは、色々な人たち、普通にkawaiiとして好きなシウ、エリー・ホワイト、アナ・フェルナンデスはともかく、男連中、馬明、アレクセイ、エリオットはそれぞれ序盤、中盤、終盤を盛り上げてくれたいい脇役だと思う。だから、馬明は亡くなった時、一番最初に出てきたキャラクターの一人だったこともあって、すごい損失感があり、エリオットは、なんだかんだで一番純粋な善意に近い何かを見せて、すごいいい大人だなと思った。というか、やっぱり大人が大人している作品っていいよね。これは、これまたこの間やったステラとも似た話で、この間、知人達と劇場版エウレカハイエボの話をした際に話題になった話なのだけれども、やっぱり、僕らの年齢が主人公たちの未熟な子供から、それらを導く大人に近づくに連れて、どうしても大人の方の物語に感情移入しちゃうようになったし、そしてちゃんと大人が大人をやれている、あるいは、最低でもやろうとしている作品は、なんだかやっぱり、ある種の正しさを感じて、心地いいよなって。子供の頃は、大人はみんなわかってくれないと、叫んでいたから、そういう、大人がわかってくれない人たちという描かれ方をしていて、存外に受け入れられたものだけれども、僕らは、それを受け入れるには、ちょっと大人になりすぎたよな、って。そこら辺の話とつなげるならば、アレクセイもやっぱりいいキャラだ。この作品の数少ない、『年少組より少し年上だけれども、子持ちの大人たちよりは全然年下』な彼は、(このポジションのキャラというと、他には世傑あたりかな)ある意味私の年齢層ドンピシャだった。彼が持つ、物語での浮遊感。ある意味人生での浮遊感は、ある意味、自分なのだろうな、と思ってしまった。もちろん、彼ほど壊滅的な趣味を持っているわけではないけど、それでも、大人になること…親になることから逃げて、今の快楽に溺れる姿を咎めらるのに、何も感じないといえば、嘘になる。
でもやっぱり、この作品は江梨子だ。亮に始まり、江梨子に終わる。この作品のBlacksheepは誰かっていうと、まぁ、色々な見方があるし、Black Sheep達の街なので、Blacksheep Townなのだけれども、それでも一番傾いているのは、江梨子に違いない。彼女たちの、お兄さんからの愛に、彼女たちが応じられなかったから、亮が狂ってしまった、という世界観は、あまりにも響きすぎる。僕はこの、壊れてしまって傾いているが、純粋で、真っ直ぐな子にすっかり魅了されてしまった。きっと、ヘドロ団地のみんなもそうなのだろう。だから、彼女が、全てが終わった後に、ヘドロ団地で元気にしてそうだったのは、ほんの少しだけ、救われた。
そして、亮。彼について、あまり考えることはしなかったけど、それは、語られる物語を見るだけで十分だったから。優しすぎる彼に語るべき言葉は、あまりにもにないように思えたから。どうでもいいけど、まぶらほ(まほらぶ)の「ちゃんと笑いましょう、ちゃんと泣きましょう。心の中身を充実させなくちゃ。」という歌詞が好きで、私はよく自分の中でこの言葉を反復している。亮のはそういう事よね。感情を動かすほどの激情で感情を動かす事は良いことだけど、ちゃんと笑ってちゃんと泣かなく事が大事なので。心の中身を充実させなくちゃ。最後の断章二つのどちらが、そうなのかは、よくわからない。江梨子が言うように、江梨子の兄を殺してしまったから、そうできなったのか、それとも見土の見立て通り、それができず、母親に甘えられなかったから、そうだったのか。どちらにせよ、彼がもし、泣くことが許されていたら、物語は少し違ったのだろう。でも、そうじゃなかった。でも、私は、私達読者は、彼が最初から最後までどんなに頑張ったのか、知っている。だから、せめて私だけでも、彼のことを許してあげたいと思う。その思いで、きっと、路地は、最後、エンディングへ手を引いていったのだろうと、思う。
ただ、まぁ、これだけのテキスト量で、全ての思考が絶賛にとどまるかって言うと、そんな事はない。し、こういう話を読むと、やっぱり推測とかそういうのの回路が勝手に回っていって、どういうクライマックスになるのかな、と思ったり、思わなかったりした。だから、そういうのもちょっとだけ書いてもいいだろう。
元々作品のテキスト量がわからなかったから、実はこれは父親から子供に語り継ぐっていうのがテーマの作品かな、と思って、だから父親の死が中間地点かなと思っていたのだけれども、そんなことはない。折り返しどころか、三割地点のボリューム感だった。とんでもねぇ。ただ、とはいえ、あそこが作品で一番おもしろい部分だったよな、と思ってしまうのも事実。中ダレした、までは言わないものの、ちょっと新しい情報の出る頻度などがまばらになって、クライマックスまで一呼吸置く形になったよな、とは思う。ただ、ここの、あまりにも凄惨な日々が、この作品の苦しさのキモなので、やぱりこれをカットできないのは、そうだろうな、と思うので、うむ。あと、この部分でも、全然、クラブ・ローズ襲撃の親世代など、全然見どころはあるので、つまらないとはまったく思わなかった。ただ、やっぱりみんなが生きて幸せにしている部分が、それでも一番楽しかったな、といったカンジダ。
そんなこんなで、黄泉としては、最後、見土と亮の二人で大抗争と路地とサーシェンカの闘争が起こるのかな、と思ったけど、本当にそんな気持ちがいい終わり方をするかな、とも、感じていた。そう思った矢先の見土暗殺で、あー…瀬戸口だな、と。
サーシェンカ戦も、あまりにもアリスが強すぎたので、寄生獣のラストみたいな取り合いをするのかな、と思ったら、そんなショーダウンは怒らず、むしろショーダウンと呼べるのは亮と灰上の間で行われて、一瞬拍子抜けしたものの、いや、むしろこれでいいよな、そうなんだよな。これなんだよな。僕たちはまだ話し合っていないんだよ。人は話し合いで解決できるのならば、話し合いで解決すべきなんだよ。そうなんだよ、と、謎の納得感で、小さく、泣いていた。ダリオも、フェルナンデスファミリーも、馬明も……見土も。なんで、話し合うことができなかったんだ、と思う一方、話し合いができたのは、それは、江梨子があまりにも傾いていたからで…という。なんだろう、上手く言葉にできていない自信しかないのだけれども、そうなんだ。上手く言葉にできなくていいんだ。それでも、言葉にすることには意味があるから。
別の話をしよう。先のも話したれども、この作品のジャンルはミステリーでもSFでもないので、全部の綻びた結び目が解けたか、というわけではなく。特にSF的な謎はだいぶ残ったままだ。それに不満感がないといえば、まぁ、ちょっとやそっとは、ある。それに、ミステリー的じゃない話も、やっぱり幾つかの疑問符が残っている。特に、ロジャー・アダム周りとサーシェンカ周りはもうちょっと話そうと思えば話せたよな、と。特に、松子の母親(ヒトミ?)とサーシェンカの他のメンバー、そしてアダムの関係は?とか。なんで松子は捨てられたの?とか。
SF的な設定だと、タイプAの身体的変化と能力の関係、タイプBは何故グレートホールに惹かれるのか、タイプAとタイプBがグレートホール出現と同時に発生した理由。ネオ・ローズは本当に副作用をなくしたのか?(見土は嫌な予感をしてて、なんかタイプBの発症者の少なくない数はネオ・ローズに拒否感を示していたけど、それはなんだったのか?)タイプBが発症した際、それはなんなのか?そして、作品最大の謎、結局グレートホールは何なのかは一切明かされない。(黄色い洗面台的に、底がない穴→落ちない穴→オチがない、というオチかもしれないけれども)
そこら辺の要の人物であった汐博士が、どうしても亮がマフィア業に専念すると出番が少なくなってしまった関係で明かされなかったのではあるけど、せっかくのザッピングシステムだったし、そこら辺も満足させる説明ができれば、SFオタクにも大手を振っておすすめできるのにな、と、ちと残念。
あと、こっちはもうどうでもいい、半分言いがかりの話だけれども、作品では、タイプB差別と、タイプBの話ばかりで、正直、タイプAって居る?っていう気はどうしてもしてしまった。というか、タイプAがタイプAとして苦労している描写があるのが、太刀川と堂島がメインで、その二人も中盤で退場してしまったから、終盤タイプAの物語を語り告げる人がいなくなったのは、ちょっと早計かな、みたいな気はしてしまった。焦点がボケてしまうかもしれないけれども、一人くらい、タイプA差別で苦労するキャラが終盤までいてほしかったな、という思いはあり。あと、作中ではタイプAのほとんどは大した能力がないという話をしているのだけれども、実際問題、作中に登場するタイプAは化物だらけで、ほへー、となってしまう側面も。
言いがかりは、そこまでにして。
最後に、ステラのネタバレ含む話を書くかどうか迷ったのだけれども、止めた。これは、ステラの感想を書いてから、独立した記事を書くことにする。でも、両方のゲームをプレイした人は、私が何を書きたいかは、わかってくれると思う。ようやくシンエヴァの呪縛から私も解き放たれるのかな?そうだといいな。流石にここまで文句を言っているのは、自分自身に飽きているのだもの。
さて、はて。
あ、ちなみに、クリア後、Tipsを覗いてみると、ちょっと変わっていることがわかる。幾つかのキャラクターはここでしかその後がわからないので、もしその後を知りたいキャラクターがいるなら、見てみてもいいだろう。
他に今しかかけないことはあるかな?たぶんない。
そんな感じです。稚拙な言葉の上、分量だけはあるのですが、本当に最後に、一言だけで纏めると、良い作品でした。楽しめました。貴方が楽しむかは、わかりません。でも、そういうものでしょう、と思います。し、この作品は、そういう感想を書いて、許されるよな、と思わせてくれるんで、今回くらいはこれでいいよね。