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「我思う、ゆえに我あり」と自己愛

さて、目を見開いて、周りを見てみることにしようではないか。周りに見えるその景色が全て、敵意をむき出しにしているか、もしくは存在すら認めないほどに無関心なのだ。地に足はついているが、その実感はなく、天を仰いでも、そこに爽快感を感じることはできない。右手を見ても右手に見えず、左手を見ても左手に見えない。一歩踏み出して歩こうとしても、「果たして、何をしているのだろう」という疑問が先に立って、膝を上げることすら叶わない。目の前の景色は変わるが、変化しているだけであって、その変化に影響は受けないし、変化に影響を与えることもできない。
孤独とは、そんな感じだ。「我思う、ゆえに我あり」疑いを持つ自分自身は存在をぬぐえない、とはいえ、存在をしているというのは思う為に、疑うがために存在するのであろうか。そうしているうちに、肉体は朽ち、その前にその思考はどんどんと精度を欠き、只の言葉以上の価値がはなくなるだろう。

目の前に流れる景色の変化に関わることがなく、変化を感じても変化以上の感覚を持てず、手足の感覚も手足以上の感覚ではない、こうした世界で生きるということは、果たして何をしているのだろう。繁殖のためだけに、生きるのであれば、それは産み育てること自体が一つの生存の目的となるだろうか。そうなったとき、はじめて、目の前の景色の移り変わりに意味がでてくるのかもしれない。なぜなら、新しい生命はその変化に新鮮に反応し「あれはなに?」と聞くだろう。それについて答えが出なくとも、その変化について語ることは多い。手を引くためには、手を、導き先導するためには、足を使うだろう。
こうしているうちに、生きることの実感を得ることができる気がする。それ以外に何をしよう。自身のために生きる、それは「我思う」ことはでき、「我あり」としても、我の中に、その小児のような対象を存在させることになりはしないだろうか。

自己対象を自分の中に作り上げ、常に「あなたはそれでよい」と、満足を与える対象を持つことが、自己受容なのだろうか。「愛」=「受容」であるとするならば、自己の中のある部分が、その部分も含めた自己を受容することで、自己受容を完成させ、いわゆる病的なナルシシズムではない、健全な自己-愛を形成することができるということになるのだろうか。

深く考えすぎ、自意識が過剰である、なんでもいい。自己に対して意識を向けず、それを外に向けることができ、尚且つ、その外部の対象がまさしく自己対象として働き始めると、人は社会生活の中での充実を味わい、「成功」という感覚の一滴を味わうことができるのかもしれない。
自己の内側の深淵に入り込んでしまったからには、自己対象を自己に求めても、「我思う」ことにより、それをさらに分解することが「我あり」ということになるので、内部の自己は常に疑われる。その「疑義」をもって、「我あり」とすることの、摩擦にいつまで耐えられるか。
そしては、それはいつの間にか自慰行為となる。なぜなら、常に対象を疑っては、元に戻し、疑っては壊し、また戻すということが、一人で完結してしまうからだ。

これはまさにプログラムのループのように、プログラム的には何も価値はないが、それが故に悪いこともしていないようであり、ハードウエアのリソースは確実に消耗させるという、内部的には純粋無垢な行為であっても、強烈なスピードで消耗させる行為になる。
生殖や生育に基づかない自己は、どこまで自己を導き、個体を生かすことに意味を持ち続けることができるのだろうか。「我思う故に我あり」は思った以上に、厄介である。これを回避するため、深淵に到達し、戻ることができなくなる前に、「我思う」ための何かを与えるのが、社会であり、その社会が発達するためには、「社会」と「我」の同一感、いわゆるアイデンティティの形成が一番早いのではないだろうか。
そうでなくては、人は自ら内部崩壊を起こしてしまうだろう。孤独とはそれほどに恐ろしいものだと思う。そして、場合によってはその孤独へ自ら身を投じてしまうことに甘美な体験を覚え、何度も繰り返す人間が多く出てくる。

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