この世で一番美しい王妃
「鏡よ鏡。この世で一番美しいのは誰。」
何度目だろう、この質問を鏡に向ってひとりごつのは。
「それはお妃様、あなたでございます。」
鏡も決まって同じ言葉を繰り返す。意味のない質問なのかもしれないが、これを繰り返すことが日課になっていたし、何より私が私であり続けられる証でもあった。
あの忌々しい娘が大人になるまでは。
娘とは、白雪姫のことだ。名前を思い出すだけで虫唾が走る。彼女は、私が就任する前の王妃の、娘であった。言ってみれば今時の娘なのだろう。人々がそれなりに興味を示すのは分からなくもない。しかし、世の大半が、本当の美しさが何であるかなど分かっていないのだ。ぱっと見た可愛らしさに目を奪われ、中身のことなど二の次である。まさかこの鏡ですら時代に流されるとは。私の美しさがなぜ分からないのだ。
そう思いたい気持ちは山々ではあったし、実際に思ってもいたのだが、この真実を映し出す鏡が、時代に流されるとは思えなかった。私より、白雪姫の方が美しいのだ。それが真実であった。しかし私は、その事実を受け入れることが出来なかった。事実を受け入れられなかっただけではない。何の罪もない白雪姫を激しく嫌悪し、憎むようになった。頭では分かっていた。しかし、私の身体が、血が、細胞が、煮えたぎるように熱くなり、理性を保っていることができなかったのだ。
小さい頃から見聞きしたことは自然とやれるような子どもだった。そろばんも一輪車も竹馬も、小学校に上がる前からこなせたし、学校での成績は常に一番であった。小学2年生の時、一度だけ、道徳の評価が二重丸ではなかったことがあった。その日は悔しくて悔しくて、帰宅後、昼食も夕食も食べずに寝続けた。絵に描いたように枕が涙で濡れた。以来、いかにして道徳の成績で良い評価を得ることができるかを考え、周りの大人に良い顔をするようになった。
何もかもが出来すぎる天才だったわけではない。それなりに努力もしたし、それなりに失ったものだってある。受験の時期には、遊んでいる同級生を横目に、机に齧り付くようにして勉強し続けた。集中しすぎて、本当に噛り付いていることだってあった。今でも実家の勉強机の淵は、私の歯型でボロボロになっている。証券会社で働いていた頃は、始発で出社し、終電で帰るなんてことは当たり前のようにあったし、会社を辞める直前は、会社のそばにあるホテルに住んでいた。手に入れたいものは、自分の手で手に入れてきた。
会社員時代、燃え上がるような恋に落ちた。同じ部署の3つ年上の先輩だった。その先輩は、まだ若いのにも関わらず、次期部長候補などと噂されるような仕事のできる男だった。顔だって会社で一、二を争うほどに整っていたし、彼のことを悪く言う人などいなかった。彼はいつだって私を褒めてくれた。付き合ってちょうど三年を迎えた時、私たちは、彼が押さえてくれた高級ホテルの最上階のバーにいた。私が仮の住まいとしているホテルとは、比べ物にならないほど美しいホテルだった。彼から結婚の申し出があったら、少しためらってから頷く準備はできていた。
夜景の美しいバーで気持ちよく酔っ払った私たちは、なだれ込むように、これまた彼が押さえてくれたスウィートルームへと入った。彼は私を優しく抱いた。予定していた、結婚の申し出への返事をする機会はなかったが、私は幸せだった。彼の寝息を聞きながら、私は子どもの頃を思い出していた。筆箱を隠されたこと、グループになって机を並べる時、私の机にはくっつかないようにして並べられていたこと、給食当番で、おかずを装わせてもらえなかったこと。辛い思い出ばかりが浮かんできた。仰向けになった顔の両端を涙がつたった。やっと、報われたのだ。隣で眠る彼の寝息が、私を包んでくれる音楽のようだった。
彼の寝息の演奏に浸っていると、突然、携帯電話の振動音が響き渡った。せっかくの演奏が、マナーの悪い客が紛れ込んでいたらしい。彼の携帯だった。他人の携帯など覗き見るものではない。当然分かっていたことではあったが、三度目の着信があったときに、私は彼の携帯を取り上げた。まもなく他人ではなくなるから、と自分には言い聞かせた。着信画面には、「りんご」と表示された。丁寧にりんごの絵文字まで入っていた。人の携帯を見るという行為は、一種の麻薬のようだった。一度見てしまったら、そのまま引き下がることなど出来なかった。
「りんご」と書かれた女と彼は、数え切れないほどのメールのやり取りをしていた。読み進めていくと、「りんご」というのは仮の名前で、本当の名前は私のよく知っている人物のものであった。同じ部署の2つ下の後輩だった。「りんご」の作った資料はいつも私がチェックしていた。チェックという言葉は適切ではない、私が作り直していた。それくらい、彼女の仕事は雑であった。社内でも彼女の甲高い声は目立ち、余計な話し声ばかりが聞こえてきた。やたらチークが濃く、飲み会などの席では「りんごちゃん」と呼ばれていた。
彼と「りんご」とのやり取りは、愛を囁き合うようなものではなかった。むしろお互いを罵り合うようなやり取りであった。彼の口から、このような美しくない言葉が発せられるところなど想像もできなかった。しかし確実に、彼と「りんご」との間には、他者が踏み込めないような深い結びつきが感じられた。彼が愛しているのは私ではなかった。
「鏡よ鏡。この世で一番美しいのは誰。」
私は再び鏡に問いかけた。彼と別れ、会社を辞めてから、やっとの思いで手に入れたこの王妃の座だった。もう、私の思い通りにならないものなどなかった。男などいらない。ただ、私がこの世で一番美しいのだ。それだけで良かった。
「それは、白雪姫でございます。」
私の呼吸が荒くなり、その呼吸音がさらに私を煮えたぎらせた。視線の先の鏡に映る女は、ひどく醜かった。やっと、本当の私に出会えた気がした。
鏡に映った女の左手にはりんごが握られ、右手で毒を塗り込んでいた。