ただいま #1
ドアを前にし、鍵を開けようと私はリュックに手を伸ばした。リュックを肩からおろすことはなく、両肩に背負ったまま、背中から30cmほど離れた位置にある、リュックの小さなポケットへと手を伸ばす。肩甲骨周りがあまり柔軟ではない私にとっては、辛い動きではあるが、それ以上に、リュックを下ろすという行為の方が面倒臭いのだから仕方がない。
私は面倒臭いことが嫌いである。ピーマンは種ごと食べるし、いちごの蔕も取らない。魚ももちろん骨ごと食べる。何度も骨が喉につかえたことはあるが、繰り返すことで強靭な喉を手に入れた。
昨日の飲み会で知り合った男もそうだった。職場の先輩が計画した飲み会だからと仕方なく参加したが、これがまあ面倒臭かったのだ。男女二人ずつの、いわゆる合コンのような形の飲み会であった。この時点で私の気持ちは前向きではなかったが、先輩の誘いだったので仕方がない。この先輩の言うことを聞いておかないと、後々面倒臭いことになる。まず先輩の誘いを断ったということが、すぐに他の同僚たちに知れ渡っているのだ。翌日の朝には確実に伝わっているのだから、たまったもんではない。何なら朝刊が届くよりも早く伝わっているのかもしれない。なんだ、先輩は新聞配達員だったのか。ドアから目線を落とすと、郵便受けに「新聞購読のお願い」と書かれたハガキが差し込まれていた。
私の住むアパートのドアは、郵便受けが一体となっている。築年数は私より一つだけ年上のお姉さんだ。…今、私の年齢を想像したであろう。私より一歳年上のお姉さんと言ったのだ。それくらい察せるようになってほしい。ああ、面倒臭い。右手はリュックのポケットの方に伸ばしたまま、左手で器用にそのハガキを引き抜いた。一昨日来た、新聞の勧誘の男の顔が思い出された。カメラ付きのインターホン越しに30分以上も話した、あの男だ。私だって話したくて話したわけではない。ただ、「お願いします」と懇願する顔が面白かったのだ。だから私は、彼を弄ぶかのように、何度も「お願いします」を言わせた。もしかしたら私は、ボンテージと鞭が似合う女王様なのかもしれない。しかし、女王様と呼ばれる人が本当にそんな格好をしているのかは定かではないし、女王様と呼ばれる人が存在しているのかどうかすら知らない。無知は、怖い。
新聞は結局取っていない。溜まった新聞を捨てるのが面倒臭いからに決まっている。それに、あの大きさの読み物が存在する意義が分からない。せめてあと4回くらい折りたたんだサイズで十分ではないか。私の父はよく新聞をそのように折りたたんで、焼酎を入れたグラスを置くコースター代わりにしていた。
そうだ、昨日の飲み会での男もそうだった。わざわざ自分のカバンから新聞を取り出して、さらにそれを丁寧に折りたたんで、彼が最初に頼んだピーチウーロンのコースター代わりに使っていた。突っ込みたいことは山ほどあったが、何よりもその新聞がなかなか出てこないことが一番だった。だいたい、仕事帰りのカバンの中のどこに新聞が入っているのかなんて猿でも分かる。猿は仕事もしないし、カバンも持たないが、それでもきっとすぐに分かる。その時点でその飲み会が面倒臭いことであることが確信へと変わった。
ただでさえ面倒臭いことが嫌いな私が、こんな面倒臭い飲み会に参加してしまったのだから、それはまあ面倒臭い以外の何物でもない。こんなことを考えていることすら面倒臭い。私なら確実に、カバンには目もくれずに新聞を取り出すことが出来たはずだ。現にこうして、リュックのポケットのチャックをすんなりと開け、自宅の鍵を取り出すことが出来ている。
鍵を鍵穴に差し込み、時計の針と同じ方向に回した。もちろんリュックのポケットのチャックは閉めていない。理由は言うまでもない。ドアを開けると部屋の中の蛍光灯が付けっ放しであった。何度も見て来た光景だ。初めの頃は罪悪感で胸がいっぱいになったが、今となっては何とも思わなくなった。洗っていない皿や鍋、脱ぎっぱなしの服、出しそびれたゴミ袋、そして寝そべっている数々の空き缶。
そうだ、昨日の男が私を誘うことすら回りくどいので、我慢しきれなくなった私はその男を家に連れ込んでしまったのだ。当然興味のない男だったため、私は記憶が無くなることを目標に、コンビニで買い漁った、安くてアルコール度数の高い缶チューハイを飲み続けた。彼はほろ酔い気分を味わえる、可愛らしい缶チューハイを飲んでいた。カシスオレンジの味だった。結局、私はすべて覚えている。
この男が、あの新聞の勧誘の男のように、はっきりと誘って来たのなら、どんなに気持ちが良いことか。私はまた、あの画面越しの「お願いします」の顔を思い出していた。二人の男たちは、どことなく顔のパーツが似ている気がした。
家に連れ込んだ、あの回りくどい誘い方をしてくる男に、私は一度だけアルコールを強要した。世間ではこういうのを面倒臭いやつと呼ぶのだろう。結局のところ、私も面倒臭い女なのだ。私は、彼の持つ可愛いらしいパッケージの缶を取り上げ、自分のそれと取り替え、角度をつけて彼の口に流し込んだ。案の定、彼の口から泡まみれの液体が溢れ出した。彼は涙目になりながら、「お願いします」と私に言った。彼にとっては「やめてください」の意味であっただろうが、私は構わず彼の口にアルコールを流し込んだ。片手には鞭を持っていたことだろう。
「お願いします」。明日は休日だが、予定もないので一日中家にいる。きっとまた新聞の勧誘の男は来る。私はまた、懇願されるのだろうか。ドアを閉めると、ふわっと新聞のインクが香った気がした。なんだか無性に新聞が読みたくなった。まずはこの散らかりきった部屋を片付けなければ。面倒臭い。私は誰もいない部屋に向かって、ひとりごちた。
「ただいま。」