マッチを売らない少女

 その日はひどく冷えていた。街行く人たちの声は、いつもより少しだけ大きく聞こえてきた。たとえ新しい年に何の期待感がなかったとしても、どうしてだか、そわそわしてしまう。大晦日とは、特別な日である。

 そのたった1日の境に、何が変わるわけでもないはずなのだが、明日からは新しい年である。とにかくめでたいのだ。これほどまでに多くの人が祝う1日ではあることを、その少女はきっと知らないであろう。年をまたぐという事実は、彼女が生きる上では何ら必要のない情報であった。

 私が彼女を見かけたのは、今年もあと4時間を切った頃であった。新宿の街は、いつも以上に多くの人でごった返していた。私は、画材店により、新しい絵の具と筆を購入した。例に倣って、明日から新しい作品に手をつけるつもりだったからだ。大きな声は出してはいないものの、いつもより口角の上がった顔で支払いを済ませた。冬至を通り過ぎたばかりの冬空は、店を出る頃には、あっという間に真っ暗になっていた。

 彼女は大晦日の新宿の喧騒の中、裸足で立っていた。あまりにも新宿の街に自然に溶け込んでいたので、はじめは、そういうパフォーマンスか何かなのだろうと思った。現に、街行く人々は何の疑いもなしに素通りをしていた。よく見て欲しい。ただのテッシュ配りではない、こんな真冬に小学生程度の少女が裸足で立っているのだと、声を大にして言いたい気持ちはあったものの、実際にそんなことは出来ないのだから、私も立派に、都会の人間の一人として生活出来ているのかもしれない。こんなことで驚いていたら、きっと都会では生きていけないのだろう。

 私は人ごみに紛れ、信号待ちをする一人に擬態しながら、彼女を眺めた。私を観察している人がいるのなら、きっと優しく信号の意味を教えてくれるだろう。そしてその後、彼女を眺めていることを警察に通報するのかもしれない。変なおじさんが、女の子を眺めています、と。幸いにも、変なおじさんに気を揉むような人のいる街でもなかったので、私は何度も青信号を見送りながら、彼女を眺め続けた。彼女の右手には、一箱のマッチが握られていた。それだけではない、彼女が身につけていた古いエプロンの中には、どうやらたくさんのマッチが抱えられているようだった。

 マッチなど久々に見た。1日に一箱はタバコを吸う私ではあったが、最近はもっぱら電子タバコだ。よほどタバコを切らして人からもらった時くらいでしか、火を扱うことはない。その時だって、ライターを使うことがほとんどだ。彼女のような年齢の子どもなど、マッチの存在を知らない方が多いのではないか。家の中で、火すら見たことがないという子どもだって多いはずだ。

 彼女は、随分と前からそのビルの前に立っているようであった。マッチを売ろうとしているのだ。しかし彼女は街行く人々に声をかけるでもなく、ただ、マッチを持って絶望し、佇んでいた。

 幾度も青信号をやり過ごした私は、そろそろ青信号の中で歩く紳士から怒られるのではないかと、ついに横断歩道を渡り始めた。横断歩道を渡り終えると、自然と彼女のいる方へと歩を進めた。私は彼女の持つマッチを買おうと思っていた。盲導犬、途上国の貧しい子どもたち、色のついた羽、様々な募金活動が行われるここ新宿で、ただの一度も募金などしたことなかった私であったが、彼女にはお金を払おうとしていた。もっとも彼女が行なっているのは、募金ではなく、商売なのだろうが。

 私は彼女の目の前で立ち止まった。虚ろな彼女の目には私の顔など映っていないようだった。よく見ると、彼女の瞳は、私が今日買った絵の具と同じ色の、薄いブルーだった。私がその瞳の美しさに見入っていると、彼女はくるりと私に背を向け、壁に一本のマッチをすった。マッチの先端がぼうっと燃え上がった。彼女はその火に吸い込まれていきそうなほど、恍惚な目をしていた。マッチに火がともっているのはほんの数十秒のことだった。この数十秒の間に世界中で何人の命が消えていったのだろう、と、貧しい子どもたちへの募金の看板を思い浮かべた。

 彼女は、壁でマッチをする行為を何度か繰り返した。その度に、彼女は恍惚な目をしていた。私は声をかけることもままならず、一緒になってマッチの火を眺めた。火が消えるたびに、私から希望を奪っていくようで、いつしか彼女に次のマッチを催促するようになっていた。彼女には私の声が届いているのかいないのか、しかし、私の希望する通りに次のマッチをすってくれた。そして、彼女が何度目かのマッチをすった時、彼女は初めて声を発した。蚊の鳴くほどのエネルギーすら持ち合わせていない声ではあったが、強い想いで「おばあちゃん」と彼女は呟いた。

 火が消えると、彼女はとても悲しそうな顔をしていた。彼女のおばあちゃんへの思いを推し量ることなど出来なかったが、私は彼女にマッチを買わせてくれと伝えた。すると、彼女は残ったマッチをすべてエプロンから取り出した。彼女は私に残りのマッチすべてを買取らせる気なのかもしれない。そんな考えを持ち合わせている少女で、私は少しだけ安心した。いつの間にか、このマッチを買うことが、彼女の希望になるのではなく、私自身の希望になっていた。

 すべてのマッチを買い取ろうと、私は財布から一万円札を取り出した。もちろんマッチ箱のいくつかが一万円もするはずはなかったのだが、私は迷わず一万円札を取り出し、彼女の前へと差し出した。一万円札を持って帰ったところで、保護者に全て持っていかれるのかもしれない。五千円札2枚にすればよかったと思ったが、手遅れであった。彼女は一万円札を横目にマッチ棒を箱からすべて取り出し、束にして持ち、すべてのマッチに火をつけた。

 火は勢いよく燃え上がり、彼女の頬は真っ赤に照らされた。まだ、子どもでしかなかったはずの少女の顔が、みるみるうちに大人っぽくなった。マッチの束の先で揺れる炎を眺めている彼女の横顔は、艶やかだった。炎の揺れとともに彼女の顔に入る影が、だんだんと皺となり彼女の顔に残っていくようだった。皺はどんどんと深くなり、気づけば彼女は老婆となっていた。その老婆は、燃え上がるマッチの束を持ちながら、空を見上げた。私もつられて空を見上げた。見えたことのないほどの数の星が、新宿の空に輝いていた。

 すーっと、一筋、星が流れた。しかし、強く光った一筋の光は、一瞬にして消え去った。

 彼女に視線を落とすと、座り込んで眠っているようだった。右手にはマッチの燃えかすが、束になって握られていた。彼女が、少女なのか老婆なのか、よく分からなかった。私は彼女の右手からマッチの燃えかすを一本抜き取り、代わりに、左手には一万円札を握らせた。結局、彼女は私にマッチを売ってくれなかった。


 春になり、私の個展が開かれた。多くはないが、それなりの数の人が訪れた。画廊の一番奥に置かれた、私の背丈ほどの大きさのキャンバスには、彼女が座り込んで眠っていた。

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