赤ずきんのおばあさん

 瞬きをし、左右を見やる。見覚えのある部屋だった。…私の家だ。うたた寝してしまっていたらしい。最近は眠りから目覚める度に、自分であるとの認識をしなければならない。歳のせいなのかもしれない。また今日も生きているという安心感を目覚める度に感じる。いっそ眠らなければ、こんなことにならないのかもしれないと、昨夜遅くまで起きていたのが原因だろう、昼下がりに気持ちよく眠ってしまった。夜更かしの努力は実らず、昨夜も午前2時には床についていた。最近あまり体調が優れないのは、そのせいなのかもしれない。両手に持った編み棒によって編まれた毛糸はまだ、ビスケットほどの大きさでしかなかった。編み始めてすぐに眠ってしまったらしい。冬へ向けて、孫娘に頭巾を編んでいるのだ。今時、頭巾だなんて流行らないはずなのに、以前私が編んだ赤い頭巾を、孫娘は気に入っていつも身につけてくれていた。私に会う時だけなのかもしれないが。

 今日はまもなく、孫娘が来る予定である。今年十歳になる孫娘は、みるみる背丈が伸びてきて、来年か再来年には私の背丈を越すことになるだろう。同時に私の腰はみるみる曲がり、背丈は縮んでいっている。先月孫娘が我が家で解いていた、算数の問題を思い出した。算数が得意な彼女は、学校ではまだ習っていないような、速さと距離と時間を使った問題を解いていた。一ヶ月に5mm伸びる孫娘の背と、一ヶ月後に0.1mm縮む私の背が並ぶのは何ヶ月後でしょう、というような。ちょうどいい、このあと孫が来たら問題を出してあげよう、私は紙と鉛筆を取り出し、計算式を書き始めた。

 計算式を一行書き終え、さあ解き始めようという時に、戸の音が鳴った。孫娘がノックをしてくれたことは一度もない。いつも戸の外から私の名前を呼びかけて来るのだ。孫ではないと感じた私は、立ち上がるのも一苦労なので、座ったまま声を出した。

 「そこにいるのは誰?」

 「赤頭巾よ。」

 当然誰もが異変に気付くだろう。孫娘ではない誰かだった。確かに孫娘は私のあげた赤い頭巾をかぶっている。しかし、自分自身を赤頭巾と呼んだことは一度もなかった。いくら革ジャンが好きで、いつも身につけているとしても、自分のことを革ジャンとは呼ばないだろう。誰だって考えればすぐに分かる。孫娘ではない誰かが誰だかは分からなかったが、私は自称赤頭巾を家に招き入れた。孫娘になりきる者が、どれほど孫娘でいられるのかに興味が湧いたからだ。結論から言うとこの判断は間違っていた。誰だか分からない人を簡単に招き入れてはいけないのだ。だから老人へ向けた詐欺が、形を変えながらも無くなっていかないのだろう。私も立派な老人の一人であった。まさに、孫娘を装った詐欺に、私はまんまと乗っかった。

 自称赤頭巾は、ドアを開けると私の方へと向かって来た。見れば狼であった。私は憤った。自分のことを赤頭巾と偽ってまでしてこの家に入ろうとしていたのにも関わらず、身なりに何の工夫もない、ただの狼であった。私は入って来た狼をすぐに座らせ、真似るということを説いた。学生時代にやっていた演劇を思い出しながら、私は演出家さながらに、真似ることの意義と方法を、必死になって説いた。はじめは呆気にとられた様子だった狼も、自分の無能さを恥じ、いつの間にか私の話を一生懸命に聞くようになっていた。私の机から紙と鉛筆を取り、メモまで取る真剣さだった。

 一通り、真似るということについて話しきった私は、話すことがなくなったのをきっかけに、今の状況をやっと理解し始めた。狼だった。突然襲って来た恐怖に、ただでさえ動きの鈍い私の老体が、さらに動きを遅めた。私が得意気になって話していた教え子は、私を襲いに来た犯罪者だったのだ。立派な喜劇を自ら演じてしまっていた。

 しかし狼がすぐに襲って来るということはなかった。生徒としての自覚があるのかもしれない。熱弁が功を奏したのだろうか。確かに狼は私を襲うためにここへ来た、そして私を襲ったあとに訪れる孫娘をも襲おうという算段だったらしい。私はともかくとしても、孫娘は守ってやらねばと思ったが、狼の話には続きがあった。今、私から習ったことを試させてほしいというのだ。それはつまり、孫娘が来た時に、私の真似をして孫娘を騙してやろうということだった。私は、それを認めた。そして認める代わりに、もし孫娘を騙すことが出来なかったら、孫娘を襲わないという約束をとりつけた。

 狼と私のレッスンが始まった。狼が真似するのを見、私が修正点を言及し、また狼が私の真似をする、という流れを何度も繰り返した。私の生い立ちや、価値観を話し、内面からも狼の中に私の像を作り上げていった。もちろん孫娘を守ってやりたいのだが、私の中の何かが燃え上がり、狼には全力で真似をさせた。仮に孫娘が狼だと見抜いた時に、私は喜ぶのか、悔しがるのか、自分自身でも分からなかった。

 孫娘の声が聞こえた。いつものようなあっけらかんとした声で、私の名前を、正確には、彼女にとっての私の続柄を呼んできた。部屋の中に緊張が走った。狼にとっての初めての晴れ舞台であった。孫娘を部屋の中へと迎え入れるのには、私が声を出した。孫娘は当然、何の疑いもなしに戸を開けて部屋へと入って来た。私はベッドの下へと身を潜め、狼は私がいつも座っている椅子に座った。私の服を着て、帽子を深々と被り、編み棒と赤い毛糸を手に持っていた。どんなに頑張ったとしても、見た目は完全に狼だった。身体は私の身体を使い、声だけ狼に出してもらう、腹話術のような形式にすればよかった、と私はベッドの下で今更思った。

 案の定、孫娘は見た目の異変に気がついた。これでは、狼の真似がどうであったかを測ることは出来なさそうだった。

 「まあ、おばあさん、とても耳が大きいわ。」

 狼に向けられた孫娘の声が、私に向けられるそれと同じであることに私は気づいた。ただひとつ、内容を除いては。

 「お前の声がよく聞こえるようにだよ。」

 お前の「お」があまり発声出来ていなかった。やはり狼は緊張しているようだった。発声法にまで言及する時間はなかったが、初めての台詞にしては悪くない方だった。孫娘が狼だと気づいた途端に幕が閉じることになるが、まだ幕は開けていても良さそうであった。

 「だけど、おばあさん、とても目が大きいわ。」

 孫娘は疑っていた。孫娘の台詞が、逆接の接続詞から始まっていたということは、狼の台詞を肯定的には受け取っていない証拠であった。それもそのはず、孫娘と会っていなかったたった一ヶ月で、私の耳も目も大きくなるはずがなかった。

 「お前がよく見えるようにだよ。」

 狼には、私が学生時代に学んだ演技の要素を使い、真似の仕方を教えただけだったのにも関わらず、狼の対応力は素晴らしかった。一つ前の台詞に重ねるように、次の疑問に答えたのだ。次の展開を期待させるようなこの台詞は、私の胸を高鳴らせた。

 「だけど、おばあさん、とても手が大きいわ。」

 「お前をよく抱けるようにだよ。」

 この台詞も秀逸であった。手の用途は様々である中で、抱けるという言葉を引っ張りだしてきた狼の思考を素直に褒めてあげたかった。私だったら、「お前に触れられるように」とか、「お前の手を握れるように」とか、そんなところだろう。

 「だけど、おばあさん、おそろしく大きな口よ。」

 孫娘も楽しんでいるのかもしれない。異変に気付いていながら、この展開に身を任せているのかは分からなかったが、段階を踏んだ素晴らしい台詞であることに違いなかった。そして、クライマックスが訪れた。

 「お前を、よく食えるようにだよ。」

 狼は、積み重ねてきたおばあさんという人物を一気に脱ぎ去った。あまりに見事だったので、私の身体が反応し、思わず立ち上がろうとしたが、すぐにベッドに頭をぶつけた。椅子から立ち上がり、全身に力を込めて台詞を言い放った狼は、孫娘に背を向けた。素晴らしい初舞台であった。そして孫娘に背を向けた狼が、ベッドの下の私に向けて視線を送ってきた。私は賞賛の目で、狼の目を見つめた。

 狼の目に涙が浮かんでいた。


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