ただいま #4
私がちょうど玄関のドアの前に立ち止まった時、冷たい雫が、左手の小指の先から滴り落ちた。むせ返るような暑さに一日中さらされていた玄関のタイルに落ちた雫は、一瞬にして消えていくようだった。固形だったはずのレモンシャーベットも、すべて食べきるよりも先に、黄色い液体へと変わってしまった。私はそれを喉の奥まで流し込んだ。
シャーベットとして売り出している商品にも関わらず、食べきる前に溶けてしまうのは、商品として成り立っていないのじゃないか。なんだ、溶けない環境で食べろと言うのか。極寒だ。極寒の地で食べるべきシャーベットなのか、と言いたい気持ちは、食道を通って胃に向かって行く黄色い液体とともに、冷やされていった。だいたい、レモンシャーベットと書かれている、この得体の知れない氷とは、一体何なんだろうか。レモンの果汁など一滴も入っていないのだ。なのに青春の1ページでもあろうかのごとく甘酸っぱい。レモンシャーベットではない、青春のシャーベットだ。そんなことを思いながら先ほどの雫の跡を見ると、それがどこにあったのかも分からないほどに消え去っていた。私の青春。儚い。
レモンシャーベットの容器を、左手に下げたコンビニエンスストアの袋に放った。私には、お酒を飲んだ後の帰り道にレモンシャーベットを買ってしまう癖がある。仮にも娘には、歩きながらものを食べるな、と日々注意しているはずなのに。ただ、年に一度の飲み会だ。娘よ、許してほしい。
私は慣れた手つきでドアノブを掴んだ。いや、ドアノブと呼ぶべきものではないのかもしれない。目線ほどの高さから膝元までの長い金属の棒が、二箇所でドアと接続されている、ドアの取っ手だ。まあいい、ドアノブと呼ぼう。幸いなことにドアノブは熱を帯びていなかったが、なんだかべたっとした。レモンシャーベットだ。べたっとしていたのは、ドアノブの方ではなく私の右手の方だった。
そうだ、彼の左手はいつもべたっとしていた。切手は指だけで貼れたし、スーパーの袋は、触れば開いた。プリントを配る早さも、彼の右に出る物はいなかったが、プリントの端はふにゃふにゃになった。リトマス試験紙は、青から赤に変わった。握るといつも湿っている彼の手が、不思議と恋しくなった。あの時、私の手を離さないでいてくれたら。私はドアノブを握りながら高校時代を思い出していた。
彼はいつだってレモンシャーベットを食べていた。小学生の頃、どんなに寒くても半袖で登校してくる同級生がいた。一人だけではない、数名いた。彼らは半袖であることが誇らしいことのように、日々半袖で登校してきていた。絶対に寒かったのだろうが、それが彼らにとっての自我だったのだろう。目覚めるのは早い方なのかもしれない。きっと彼もその部類だっただろうが、私は彼の小学校時代を知らなかった。しかし、高校生の彼は、いつも必ずレモンシャーベットの入ったコンビニエンスストアの白い袋を下げ、登校してきていた。それが仮に、雪の吹きつける朝であろうとも。
3月の終わり頃だっただろう、桜の開花宣言もなされたその時期には珍しく、大雪が降った日のことだ。高校の卒業式を終え、時間を持て余した私たちは、これでもかというくらい、毎日のように顔を合わせた。私たちが顔を合わせるのは、決まってホームセンターの屋上にある駐車場だった。
私たちは、車の出入りもほとんどない駐車場の隅で、誰にも見られないことをいいことに、文字通り毎日のように顔を合わせた。唇を重ねあったというのが正しい表現かもしれないが、そんなロマンチックなものでもなかったはずなので、顔を合わせたということにしておく。だって彼の舌は、決まって黄色かったのだから。
毎日駐車場に通い続け、特にやることもなくなった私たちは、駐車されている車から、家族構成と生活を予想するゲームにはまった。国産の、かわいらしいピンク色の軽自動車が停まっていた。30代半ばの母親が運転席に乗り込み、日用品を買い込んだ袋を持って遅れて乗り込む気の弱そうな父親、そして屁理屈をごねて泣きながら後部座席に乗り込む10歳前後の娘、が想像できた。それが正解だったのかは覚えていない。
大雪に見舞われたその日も、彼は例のごとくレモンシャーベットを食べていた。彼の顔は青ざめていた。見るに耐えられなくなったので、少し早めの帰路についた。その日も私は、いつものように彼のべたっとした左手を握って帰った。彼の家の方が私の家よりも近くにあるのだが、彼は私を常に家まで送り届けてくれた。
雪化粧を施された家々を眺めながら、彼の家の前を通過しようとすると、がちゃりとドアが開いた。彼の父親らしき人が出てきたのだ。彼は何事もなかったかのように、握っていたはずの私の右手を離し、前を向き、少しだけ歩みの速度をあげた。
その後どのように別れたのかは詳しく覚えていない。ただ、彼は、私の手を離したのだ。
私は右手で掴んだドアノブを勢いよく引いた。しかしドアは大きな音を立てただけだった。開かない。するとすぐに中から小走りで近づいてくる足音が聞こえた。娘だ。足音を聞けば、それが夫のものか娘のものかくらいはすぐに分かる。こんな時間なのに、娘が寝ていないというのはどういうことだ、と夫への怒りがこみ上げてくるのよりも早く、私は左手にぶら下げていたレモンシャーベットの入った袋を、室内から出来るだけ離れるように投げた。高校時代にやっていたハンドボールの、ラテラルパスの要領だ。厳しい部活動で、いつだってやめたいと思っていたが、今日この日のためにあの3年間があったのかもしれない。娘の手前、シャーベットを食べながら帰ってきたなどと言えるわけがない。どうせ明日も私が一番早く起きる、その時に回収すればいいのだ。シャーベットの入った袋は、庭に駐車してある、ピンク色の軽自動車の左後方のタイヤに当たったが、ドアの鍵を手際よく開ける音にかき消された。
娘はきっと、屁理屈をごねる準備をしているはずだ。今日の夜更かしは、なかったことにしてあげよう。その代わり、私が食べ歩いていたこともなかったことにする。ドアが開き、娘の顔が見えた。いつもより二度高い音で私は言った。
「ただいま。」