ただいま #5
いつもとは違う、特別な高揚感が私を包む。太陽の照らす時間も短くなってきたはずの、霜月の夕暮れ時ではあるのにも関わらず、外はまだ明るい。茜色に染まった秋の斜陽が、私の心情を映し出しているようでもある。こんな時間に帰ってきたのはいつ以来だろうか。帰り道で見かけた街の人々の顔も、どこか明るく映った。もっとも、いつもならば暗闇に包まれているため、人の顔もはっきりと確認することはないのだが。
人の顔というものは鏡のようである。私が笑えば、概ね相手も笑ってくれる。接客業というのはそう思い込んでやるべきだ、と入社したての私に上司は優しく教えてくれた。日々の業務の中で完全に頭から抜け落ちていたが、今ふと思い出した。
この言葉は、こと日常生活においても同義だったのかもしれない。つまり、私が高揚感に満ちた顔で帰っているから、街ゆく人々もそのような顔に見えたのだ。思い込みで世界は変わる。逆に言えば、疲れ切った私の顔は街ゆく人々をも疲弊させてしまっていたのかもしれない。街ゆく人々よ、申し訳なかった。
月曜日は忙しい。私の勤める郵便局は、オフィス街の中心にある駅のビルに位置しているため、昼の時間帯が特に混雑する。月曜日にこれだけ早く帰れたことは今日まで一度もなかった気がする。気の持ちようで、仕事の速度は変わる。いつもこれだけの速度で仕事をこなせていたのなら、きっと私は、今の職場で今の仕事はしていないだろう。分かっている、毎日こうは働けないことくらい。自分の能力は、自分が一番分かっている。
私はいたって普通の人生を送ってきた。普通の家庭に生まれ、普通の大学に行き、普通に働いている。人生においての普通が、何であるかすら考えたことなどないが、きっとこれが普通だ。普通が一番良い。普通でないことをひとつだけ挙げるとしたら、割り箸は二度使う。この話をすると、きょとんとした顔をされるのも分かっている。まず普通に使った割り箸を洗って、今度は持ち手を反対にして、いわゆる逆さ箸の状態で使う。一度で捨てるのは、なんだか勿体無い。二度使うのは、なんだか汚らしい。だから、逆さまにする。必死に絞り出してみても、普通でないのはこれくらいなものである。普通で、何が悪い。
悪い部分など、見当たらなかった。私には3年付き合っている彼女がいる。嫌だと感じたことは、ただの一度もない。喧嘩というものは、こと今の彼女においては一度だってしたことがない。私が過去に付き合ったのは、今の彼女を含め3人だ。多いか少ないかは分からないが、人と比べるものでもない。比べたとしてもまあきっと、普通の数だろう。
一人目は、高校3年生の時。学校の図書室で受験勉強を共にしていたことから仲良くなった。それなりに幸せを感じながら過ごした受験生活であったと記憶しているが、それぞれ別の大学に進むことになり、大学進学後別れることになった。
二人目は、大学2年生の時。入っていたテニスのしないテニスサークルの夏合宿で急に近づいたのを覚えている。次のスノーボードの合宿では別れていたので、あまり長くは続かなかった。以来、サークルには顔を出さなくなった。元々テニスをやるサークルではなかったのだから、行くも何もない。未だにテニスはできない。
そして三人目が今の彼女である。私が29の時、年賀状のための特別なアルバイトで私の職場に来ていたのが彼女だった。彼女はまだ大学生であったが、30を目前にした私に何ら遠慮もせず話しかけてくれた。もちろん、嫌な馴れ馴れしさもなかったし、何より彼女は笑顔だった。この時も、上司の言葉を思い出したような気がする。
人の顔は鏡だ。彼女を見ていると自然と笑顔になれた。こんな私と付き合ってくれるような彼女なのだから、誰もが羨む容姿なわけではないと想像されるだろうが、彼女は美しかった。私には充分すぎる彼女であることに間違いはない。
やがて付き合うようになった私たちは、デートを重ねた。ある時は浄水場、ある時は発電所、ある時はガスの博物館、インフラばかりを攻めた。いたって普通のデートだと飽きられてしまうのではないか、という私の不安が勝った結果、インフラデートを重ねた。なぜだか彼女は喜んでくれた。きっと彼女は普通ではない、こんな私と付き合ってくれていることを含めて。
真新しいドアノブを握ろうとすると、私の顔が映った。ドアノブの曲線に合わせて鼻が大きく湾曲した顔は、不細工でしかなかったが、どこか誇らしげにも見えた。新築のマンションの一室を借り、今日から二人で住む。昨日までの連休中は、彼女が海外出張だったため、引越し作業は私一人で行った。彼女の荷物は、来週末にすべて運ぶことになっている。この連休はすべて引っ越しに費やしたが、疲れなど微塵も感じなかった。実際に今日からこの場所で生活するのだ、彼女と二人で。
鍵を開け、中に入ると、真新しい綺麗な部屋が待ち構えていた。これからこの部屋を、二人で生活感でいっぱいにしていくのだ。私はまた一人、にやけた。玄関に入って左には、鏡を置いた。全身を映し出すほどの大きさのものは置ける空間がなかったので、顔の映る程度のものを壁に貼り付けた。そこには、誇らしげな男の顔が映し出された。彼女はどんな顔でこの家に帰って来るのだろうか。そう、彼女はここへ「帰って」来るのだ。鏡の中の男が笑った。どこにでもいる、普通の男だった。
そして、鏡の中の男が語りかけてきた。人様には決して見せられないような、気色の悪い満面の笑みだった。
「ただいま。」