ひとを情報で丸めるということ。
「今を生きる思想 西田幾多郎 分断された世界を乗り越える」を読んでいる。
本書を読む前に、次の動画を視聴することをおすすめする。
西田幾多郎については、割と紆余曲折があってたどり着いた。人生の立ちふるまいを考えていた時に、永平寺や安泰寺の動画を吸収するように視聴し、そこから実家が曹洞宗であると気づき、禅に興味を持った。というのが前提である。
そこから、禅師の語りの動画を見たり、実際に座禅を実践してみた。並行して思想家や哲学家の話も聞いたりしていると、鈴木大拙と西田幾多郎に行き着いたという訳である。鈴木大拙の動画もずいぶん見た。好々爺のような印象だった。
西田幾多郎については、上記の動画の印象が強い。それ以外は特に情報として混じり気を持っていない。京都学派という言葉の響きにかっこよさも感じる。
西田の代表作は「善の研究」である。現在読んでいる本では、それらを踏まえて西田幾多郎を解説している。ゆっくり読んでも2-3時間程度なのでとっつきやすい。とかく文書も現代文なので嬉しいところだ。
ひとを情報で丸めるということ
西田幾多郎に限らないが、私が最近ふと気づいたことは、人の人生を情報として語るときの要素である。
Wikipediaがとても分かりやすい例だが、名前・生年月日・没年月日・職業・代表作や役職といったものに集約される。
西田幾多郎を例にとれば、プライベートな部分で姉を始めとして、子や妻の死に遭遇して落胆したエピソードが添えられる。
とても簡単にまとめると、人の人生というのはこれくらい単純にまとめられるのだなぁと思ったのである。もちろん、西田の場合は著作や哲学の解きほぐしを後世の者が行っているが、えらく単純に情報として丸めるとそんなものになる。
職業の立ち位置
さらに集約すると人の人生とは、どうも職業なのだ。
現代でも子どもの夢の多くは職業なのである。職業が夢というのは、とても当たり前な気もするし、当たり前すぎて違和感を持つものでもある。
別に将来の夢が「おいしいものをたくさん食べる」や「山で虫取り」でも良いのである。
ただそれは、やっぱりどうして周りは納得しないんだろう。人は職業で語られるし、その人となりなんぞは、周囲の人間ぐらいしか興味は持たないだろう。じつのところ、周囲の人間でもあやしい。
となると、社会的に重要なのは職業であって、人間の内面なんて情報で丸め込むと些末なものなのだなと思い至ったのである。