なぜ、ぼくらは「デジタル小作農」をするのか?
「デジタル小作農」という言葉がある。「デジタル小作人」ともいわれる。この言葉は、とてもシンプルで、「デジタル」+「小作農」だ。意味もまんまである。
プラットフォームで発信をすること
とはいえ、改めて定義をするならば「デジタル」はウェブ空間やパソコン・スマホなどの端末を通じたコミュニケーションや発信を指す。「小作人・小作農」は、それらで発信やコミュニケーションをする際に、特定のプラットフォームを利用している人となる。
合わせて「デジタル小作農」は、プラットフォームを介して、ウェブ空間等で発信をすること。そして、それらのメタファーであり、揶揄でもある。
なぜ、ぼくらは「デジタル小作農」をするのか
ここでいうプラットフォームはなんでも良い。「ノート」もそうだろうし、旧ツイッターこと「X」や「YouTube」、「Instagram」などのSNS。ブログサービス。仕事にしている人ならはウェブメディアやオールドメディアのウェブサイトでも良い。
なぜ、ぼくらが「デジタル小作農」をするかといえば、それらのプラットフォームが使いやすく、利用者も多いからに他ならない。そして、多くは無料であるか、払える程度の使用料しか発生しない。あとは単純に発信したいという願望もあるだろうし、サービスによっては収益を生む。
弊害としては、サービスを太らせ、想定していないユーザーからの反応にストレスを感じ、発信した情報は数時間で形骸化されるくらいである。稀に売れた情報は瞬く間にコピーキャットに模倣され、多少延命はするがいずれ無に近い価値になる。AI時代においては、AIの教師データに組み込まれるかもしれない。
自由な場所の煩わしさ
本来、ウェブ自体は圧倒的に自由な場である。独自にサイトやブログを立ち上げれば、そのプラットフォームをいかようにも操れる。制約をかけてもいいし、拡張しても良い。そこで発信される情報は本当に自由かもしれない。
しかし、閲覧数は少ない。見られない上にサーバ代などが発生する。セキュリティに問題が発生すれば原因を特定して穴埋めをしないといけない。宣伝や広報にSNSを利用すると、独自メディアを持つ不自由さを感じ、アイデンティティは揺らぐ。こういう時、仲間がいれば頼もしい。
そこにサービスがあるから
大手プラットフォームも自分が立ち上げたサイトも、いずれはサービス終了するだろうということは頭をよぎる。終わるものに時間と心血をそそぐことについては、その意義すらも揺らぐ。いったいなにをしているのか?と思うのはみな共通である。支えは仲間であったり、応援してくれるユーザーであったり、金銭だったりする。遠因には暇つぶしやスキルアップ、頭の中の整理といったこともある。
ぼくらが「デジタル小作農」をしているのは、そこにサービスがあるから。
そして、そのサービスが何か自分を拡張してくれるかもしれないという希望と、ほんの時間つぶしである。暇だと碌なことを考えないので。
この文章を書いている30分間は、現実問題を忘れて集中ができた。そういった薬の面もデジタル小作農にはある。