コンプライアンス通報制度の無意味さ
(かわせみ亭コラム#20)
多くの会社組織において不正行為が頻発するようになった頃から、遵法精神を高揚するためにコンプライアンスという言葉が使われ始め、それを所管する社内部門も整備され、不正についての社内通報制度が設けられるようになった。しかしながら、一向に会社における不正行為やその隠蔽事件は減る様子が見られない。
なぜなら、その社内通報制度を利用することなど、会社組織の意味が分かっている普通の人間ならば、たとえ不正を目撃したとしても通報するということなどは考えもしないだろう。なぜならば、会社自体の不正ないしは上層の不正を通報するということは、ただちに会社そのものと闘うということを意味するからである。
日本の会社における個人の行動に対する上司からの圧迫あるいは強制は非常な力を持っている。自分の会社とは、実は自分の上司そのものであるという考え方がその実態をよく表している。上司に逆らえば、まずその組織で生きて行くことは不可能である。上司を個人であると認識することは間違いである。自分の上司は、自分の上の階級の力や権威の代表者として部下に接する者であるから、上司に逆らうということは、直ちに上の階級の全員と対決するということを意味する。とても個人が対抗できるものではない。
この教訓は現代でも有効である。会社の不正を正すために個人が社内のコンプライアンス担当の部署に通報するなどということは、日本の社会では危険極まりのない行動だと言える。日本の会社において、その不正を発見した場合の闘い方は、個人で通報したり行動したりすることではなく、多数の支持者を集めることから始めなければならないだろう。抵抗の形としては、個人として突出あるいは露出してはいけないということである。組織的抵抗、それ以外に方法はないのかも知れない。
かくして、社内通報制度は誰も利用せず、もし社内に不都合な違法行為があったとしも、見て見ぬ振りや意識的な隠蔽が今後も続いていくのであろう。
たとえ不正の指摘といえども、その共同体を危うくする行為は、共同体に対する敵対とみなされ、その敵対者に対しては徹底的な弾圧が加えられるのである。このことは、何はさておいても共同体の存続が絶対優位の最高価値である日本の共同体における暗い負の局面である。この負の局面が一旦発揮されると、嘘が嘘を呼ぶと言われるように、負の思考と行動の悪循環の連鎖が進行拡大し、ついにはその共同体の破綻となる。この負の連鎖を断ち切るために古来から日本人が取ってきた対処方法は、いわゆる「殿ご乱心」という名目をつけることで、原因を作った主君を座敷牢に幽閉するか、相手が多数の場合は謀叛という形を取らざるを得なかった。現代流に言うと、経営トップの検査入院ないしは取締役会で突然の解任劇となるのであろう。
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