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喜怒哀楽??(125)

涙を流すのは恥ずかしい。これはおそらく感情を表に出さないことを美徳としているからである。大人なのに泣いたり怒ったりするのは、感情をコントロール出来ない子供と同じであり、成熟した人間ではないという考え方なのだろう。しかし不思議なことに、自分が感情を出すのは恥ずかしいが、人が感情を出すのは割と容認する場合も多い。理不尽なこ社会や秩序のない現代にドロップキックをかます人を見ると、もっとやれやれと盛り上がる。またアスリートの涙などを見た時も、不思議と爽やかな気分になり、応援したくなるものだ。ただ難しいのは感情のままに怒る人や泣きじゃくる人に感動はしない。堪えて堪えて溢れ出す何かに人は共感し感動する。つまり人の感情はただ出たものでなく、溢れたものにより美しさを感じるようだ。

それにしても何故に”喜怒哀楽”で表すのだろうか。怒りと哀しみはわかるが、喜びと楽しみの分け方はなんとなく納得がいきそうでいかない。意味はわかる。おそらく喜びは嬉しいことで楽しみは快楽的なものであろう。だが似たようなもの過ぎはしないだろうか。喜びと楽しみをまとめた何かがあって、そこから分類されての喜び楽しみであると考えるのが普通ではないだろうか。そこで喜びと楽しみをまとめるものは幸福感、”幸せ”であると提案する。幸福感の中の分類として、喜び、楽しみ、満足、美味などがあるのではないだろうか。すなわち、”喜怒哀楽”ではなく、”幸怒哀(こうどあい)”が正しい分け方ではないだろうか。

とはいえこれでは足りない。もう一つの感情はやはり”笑い”である。筆者は落語家でありお笑い芸人ではないので、笑いのみを崇高に取り扱いはしない。しかし、やはり人間の感情として他に分類出来ないものは”笑い”であると考える。怒りや哀しみと同じく、ふと怒る感情として申し分ないのではなかろうか。と書きながらもう一つ感情が見つかった。それは畏れである。恐怖だけでなく他のものへの尊敬も含め、畏れは太古の昔からある必須の感情である。つまりまとめると”幸畏怒哀笑(こういどあいしょう)”、これが喜怒哀楽に代わる新しい感情を表した熟語である。

幸畏怒哀笑(こういどあいしょう)、まるで魁男塾の必殺技のようではあるが、上手にまとまったのではないだろうか。読者の皆様もこれからは誰かが感情について喜怒哀楽と表現した場合、本当は幸畏怒哀笑(こういどあいしょう)だよと教えてあげて欲しい。その通りだよ凄いねと言ってくれるか、それともなんだこの偏屈な人はと思われるか、おそらく八割方は後者だろう。
感情を表に出すのは恥ずかしいが、実は我慢すると身体に悪いそうだ。だからこそ笑いヨガなんてものもある。とにかく笑えば健康だというようなもの(違うかもしれない)だが、あれはあれでなんでこんなことしてるんだろうという疑問が生まれた場合、その感情を押し殺してしまうとまた身体を壊しそうな気がする。なんでも合う合わないがあるものだ。
今年西武ライオンズの岡田雅利選手と金子侑司選手が引退をした。岡田選手は涙はあれど持ち前の明るさで最後までユーモアたっぷりで引退をした。金子選手は伝えたいことを全て手紙に書き、涙をためながら爽やかな笑顔で引退をした。筆者の右目にもうっすら光るものが浮かんだが、ぐっと堪えてしまった。普通に泣いてしまえば良かった。
感情を抑えるのは美徳ではあるが、たまには思いっきり出した方が健康に良い。もしかしたらそのために落語があるのかもしれない。普段は夢でオナラを踏み潰したような落語をやっているが、たまにはそんな感情溢れる落語をやっても良いのかもしれない。何にせよ、金子選手岡田選手、お疲れ様でした。ありがとう!!

この連載は±3落語会事務局のウェブサイトにて掲載されているものです。 https://pm3rakugo.jimdofree.com