
会話は同質性、対話は異質性
同質性となると、共感をしたり、同じ方向性のものを再認識したりする行為となる。
それに対して、対話は、自分の意見と相手の意見が異なることを前提としている。
だれかと共通認識をする必要があるとき、現状がずれていることが多い。
その際には、対話が必要である。
コミュニケーションに内包される行為だ。
この対話というのは、基本的に相手と自分が違うことからスタートするのだ。
予定調和の話というのは、それはそれで価値がある。互いの必要なことを必要なようにとらえ合う。
これは、プロレスのようなものだ。
大筋は決まっている。
これはこれで良い。
しかし、対話というのは異質なもの同士がかかわる行為なのだとしたら、ここには重要なコツがあるだろう。
それは、双方にとって自分が大事な存在であることを正しく認識することだ。
というのも、自分が大事ということはわかっていても、相手が大事ということは、簡単に忘れてしまう。
これを忘れずに、そして表現することを、尊敬を態度に表すということになるのだろう。
そうすると、何が大事か。
どちらかが正しいという、意見のぶつけ合いではなくて、自分の大事な部分を言語化すると同時に、相手の大事な部分を理解しようとするということだ。
自分自身を理解してほしいと願う時、まず、自分自身が相手のことを理解することに徹する必要がある。
これは、7つの習慣にも記載されている、まず理解に徹し、そして理解されるに他ならない。
詳しくは、本を読むことを勧める。
これはつまり、親が、子どもにわかってほしいと願うなら、まずは子どもの気持ちを理解してからだ、ということでもある。
相手と対話というと、どうしても、対話の先にはなにか明確なゴールがあるように感じてしまうかもしれない。
しかし、これは相手と自分が異質であることから始まっている以上、必ずしも答えや妥協点が見つかるとは限らない。
それでも対話をすることに意味はある。
それは、相手を尊敬した先にある自分が他者を理解する感覚だ。
この感覚こそが、実は対話における本質なのだと思う。