人生はクソゲーなんかじゃない

人生をゲームのようにとらえた時、クソゲーと揶揄したくなることはないだろうか?

そんなリアル人生ゲームを、「強さ」と「弱さ」にフォーカスを当ててみながら考えてみた。

強みと弱み

弱みと向き合うことの意味を考えたことがあるだろうか
強さを尖らせることでより強くなれると言う。弱い部分より強い部分を伸ばそうなんてよく言われる。強みを伸ばした方が、能力の上昇も改善する伸び代も大きいのは当たり前だ。

しかし、こうも言えないだろうか?

弱さに蓋をすることで、弱さはより弱くなる。なぜなら改善しようとしないから、苦手意識が肥大化し、後ろ向きな気持ちでしか、その事柄をとらえられなくなりがちだからだ。つまり、弱さを見ないようにしてしまうことは危険を孕んでいると言うことだ。

弱さに向き合って改善を図ればいいのか?

弱さに向き合ったところで急激かつ大幅な改善は見込めないのは確かだ。強さに比べて、前向きな気持ちにはなりにくいし、うまくいかず挫折する可能性も高い。

それでもここに向き合うと言うことは、正直かなりの労力を使う。それを、日常生活においてモチベーションを維持しながら進めていくことは不可能に近い

見えない敵と戦うことの怖さ

敵は見えているものとは限らない。敵というのは、目の前に敵と認識しているときは、とても」驚異に見える。だから、敵と認識していないものは脅威と見做さない。しかし、宝箱に扮した敵が、気付く直前まで擬態していた時、気づいた時には致命傷を負わせてくるのだ。

つまり、見えない敵は、いつどんな攻撃をしてくるかわからないのだ。敵が見えないというのは、敵がいないことと同義ではないのだ。

知らなかった、忘れていた、自分の認知の外に完全に出してしまうと、そのことを再認識することは難しい。だから人は、先送りにして今の自分からは忘れようとする。忘れられるという能力は人間の特技だが、忘れてほしくないものまで忘れてしまうと、致命傷を負い、クリア難易度が跳ね上がる。

ここで言いたいのは、敵を敵と認識した上で、今は勝てそうにない、無理と判断することは別にいけないことではないということだ。


以前は、苦手にも向き合い続けることが重要だと思い込み、毎日逃げずに戦っていた。もちろんそれで得られる経験値はとてつもない。それでも、いつかは破綻する。体力が尽きるのか、成sん力が尽きるのか、資源が尽きるのか、もしくはその複数か。

選択の幅を狭めるのは勿体無い

ゲームのように繰り返しはできないけど、ゲームにたとえて人生を楽しむことはできる

ダメなら逃げて、強くなってコンテニューすればいい
人生には無限のコマンドがあるのだから、ちょっとやってみて今はやめておくなんて言う型破りなコマンドも使える
アクティブタイムなので、ターン制とか気にしなくていい
他人と合わせる必要もない

最初からハッピーエンドの映画なんて3分あれば終わってしまう

自分の物語の監督総指揮が自分だと早く気付こう

今目の前にあることは、人生の一部

今を大事にすることは、この先を作っていく上で大事なこと
大事にすると言うのは、うまくやることとは違う。別に失敗したっていい

完璧を目指すより、完遂を目指そう

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