今日の日記 2022/09/14

「Series 7以前のモデルではキーボードは使えません」

次期watchOS 9、ついに「Apple Watchで日本語入力」を実現! ただしSeries 7の広い画面ありき

使いたかった。もう少しすれば8が届くので、それまでは我慢。

2ホップリンクについて考える

ObsidianでScrapboxの2ホップリンクを代替する方法
今まであまり考えていなかった。バックリンクとは違うけど、上下もしくは左右分割で表示させてみたらまた何か違うものが見えるのかもしれない。
上下分割できないみたい。残念。

タスク管理で考えたこと

タスク管理のリストは、ここがダメになると本当にダメ。やる気が起きないし、やりたくないし、でもやらなきゃ。で、やれない自分に辟易して、やりたくなくなる。
最終的に紙にすぐにやらなきゃいけないことを書き出すか、目の前のことにしか目を向けなくなる。
自分の体とタスク管理を無意識に比較して、タスク管理を優先してる状態なのだろう。


タスク管理が悪いのではなく、タスクを効率的にシステマチックに構築するのであれば、そこに人間の不合理・不完全を加味するべきということだ。

やらなきゃいけないのにやれないときが、他人も自分もある。
それは、仕事だからやらなきゃいけないんだけど。それはわかった上で、自分の気持ちや内面に向き合うことが大事。

似た話をどこかで聞いたことあるけど、今の今まで忘れてた。多分、そのときはその人の言葉を聞いて、「自分はそんな弱い心に打ち勝つ」とかそんなこと思ってたのかもしれない。

これは打ち勝つのではなくて、目を背けてただけだったのかな。
そうすることで起きたのは、体も心も人間関係も蝕まれている。しかも見えないところで。
幸い1年前にまったく別の病気で2週間ほどやすみ、強制リセットされた。何もかも。

だから、無茶をしなくていいことに気づけた。何も変わってないけど、肩の荷物が降りた。そういうことなんだと思う。

つまり、タスク管理はタスクを管理することが目的ではない。タスクを管理することで、(自分ですら気づいてない)自分を労ること。無理しないこと。これなのかな。

子どもの文章について

最強の読解力とはなんだろうか。
読解力を上げるために必要なのは、何について読むか。


たすくまの設定

Apple Watchでtaskchuteがしたくて、たすくまに戻してみた。

たすくまを起動する
taskuma://

起動 + 動作 + 次の動作

動作と次の動作は&で繋ぐ

  • 開始: taskuma://start?

  • 終了: taskuma://end?

  • 終了&開始: taskuma://start?end=yes

  • 中断: taskuma://end?suspend=yes

  • 中断&開始: taskuma://start?suspend=yes

  • 新規開始:taskuma://start?new=yes&repeat=xxx

  • 終了&新規開始:taskuma://start?new=yes&end=yes&repeat=xxx

  • 中断&新規開始:taskuma://start?new=yes&suspend=yes&repeat=xxx

  • (xxxはリピートタスク名)

ショートカットを使用し、現在のタスクを中断→新規タスク作成を作った。
入力要求を組み合わせることで、突発かつ今までにないものもできるようにしている。
これを、Apple Watchからもできるようにしたかったけど、機能しなかった。Taskuma側でショートカットが対応できていないのだろう。


1番聞く機会が多いのは自分の言葉

自分が発する言語は、必ず自分の耳にも届く。誰か特定に人にたくさん同じ内容を伝えることはあっても、それは自分と同じかそれ以下にしかならない。
自分が発した言葉を自分が1番聞くのであればネガティブな子音ばよりポジティブな言葉を発していきたい。

フリーライティング

書く行為に制限を限りなくかけずに、思考を言語化する。各テーマを決めず頭の中に浮かんだものを書く。この時に、書き続ける、つまり手と思考を止めないことに意味がある。

考えるというのは、目の前の事象や情報を道筋を立てて頭を働かせること

思うは感情であり、それもひとつの情報である。これらを並び替え、整えることが考えることである。

自分という人間の構造は、今まで体内に摂取したものから成り立っている。つまり、食べた物でできている。

同じように、聞いたことと感じたことで、脳や性格、人格ができている。
さらに1番聞く機会が多いのは自分の言葉なので、自分が発する言葉には気をつけていきたい。

自分の中に原因を探す

自分自身に原因があるかもしれない。しかしそれは、必ずしも自分自身が全ての要因ではない。
自分の中に原因を探すことが良くないのではなく、自分だけが悪いと短絡的に考えることは危険である。
短絡的に考えることは、考えていないことと同義である

主体的に捉えるということは自分ごととして受け止めること

主体的であろうとするあまり、自分の中に原因を探す人がいる。

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