生物から見た世界
自分が今見ている世界とは何だろう?
自分とは関係なく、
誰が見ても同じであるような確たる世界というものがあって、
自分はただそれを切り取っているだけなのか?
それとも、自分が持つ心象などのフィルターを通して、
編集された世界を見ているだけなのだろうか?
「生物から見た世界」 (ヤーコブ・フォン・ユクスキュル著)が出版された当時、
あらゆる“知覚”というものと、
それまで“知覚”というものを語る上で切り離されてしまいがちの“主体”(主観)を、
その両方を結びつけようと試みた画期的なものであったらしい。
ユクスキュルはこの本で、
ダニやハエ、ミミズ、ミツバチ、ヒキガエル、コクマルガラスなど、
それらの生物には世界がどう見えているのかではなく、
それら生物が世界をどう見ているかを語る。
そしてそれらから、
「あらゆる生物はそれらの主観などのフィルターで加工された世界しか見ていない」
という提言が浮んでくる。
ユクスキュルは上のような
・ 加工された世界を Unwelt(環世界)
・ 加工される前の世界を Umgebung(環境)
と名づけ二つを分けた。
どうも主体というものはシャボン玉のようなものなのかもしれない。
主体はシャボン玉の中に閉じ込められた空気のようなもので、
常にそのシャボン玉の膜(フィルター)を通してしか世界を見ることができない。
・ シャボン玉の外に広がる世界が “Umgebung(環境)” であり、
・ シャボン玉の膜に映りこむ世界が “Unwelt(環世界)” であって、
主体は常に膜に映りこむ世界 “Unwelt(環世界)” しか見ることができないでいる。
シャボン玉の外に広がる世界 “Umgebung(環境)” を見るためには、
その膜を破る必要があるが、
そうすると主体というものは外へ拡散して、消滅してしまう。
近年の地球環境問題が語られる中で、
“あるがままの自然” とか “ありのままの世界” といった言葉を何度も耳にするけれど、
実のところ、
誰もそれを見たことはない、
ということかもしれない。