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心機一転

新しく仕事を始める事ができた時

軽作業から少しづつの成長を果たし、ようやくというべきか今更というべきか、プロドライバーとしての資格と環境を得る事ができた筆者がプロになる心構えと準備を書いていきたいと思ったから書き始めた今回のブログ。

少し落ち着いて考えればわかることではあるが、あんまり正直に書きすぎると心中穏やかにならない関係各所の都合もありつつ、それよりも本人が安心して生活できる時間というのが何よりも優先されるべきこの世界、考えの中だけで済ます事ができる程度の情報提供はしたほうがお互いに過ごしやすいもの。
そんな理由からもう少し続けようかと思い、習慣化と習慣に役立つ思考整理と情報発信、その環境整備について自分なりにまとめてみたいと思う。

働き始めから長く働くにあたり、共通して必要なものとはどんなものか考えてみたいと思う。
まず必要なものはその働く場所の情報は必須になる。現代社会ではインターネットのおかげで断片化された情報は容易く手に入る。次に、全体的な知見に役立つ臨場感や現場の声やお客さんの声を知っていると便利に情報収集できるようになるだろう。最後に、なぜその場所で働きたいかという当の本人の動機が必須となる。人の役に立つには、自信の動機付けは避けては通れない一種の燃料に当たるものだと理解している。まずはそんなところから自身を整理整頓してから初めてみたらいいのではないだろうか。

過去は過去

過去の自分の経験は役に立たない、そんな先入観を持って始める、という前提で考えてみよう。先ほどの必須となる動機づけとは無縁のところから働く環境について考えることとすると、実際は憧れやお客さんの気持ちから考えなくてはいけなくなる。このことは一種のギャップを生んでしまうが、客観性を維持できる姿勢の為、有効だと理解している。自分の分別を維持していられるならプラスα有効だろうとも理解している。記録が継続して実践できるならより有効だろうと信じている。

仕事を変えたいという動機は現状に不満があり、変化を望む方が容易だという動機から発しているものだと考えられる。転職を果たした後では過去の動機となるわけだが、その目的を果たした後では一種の足枷にも似た感情として扱われるだろう。つまりはかつての未来に役立った気持ちは今の変化した環境では未来への障害になるという裏腹な原因になる。複雑さはこんな些細な現象から自分の無分別な混乱を伴って事態は不穏さを増していくものだと理解できる。

物事の見方を変えて、資源が足りなかったから、現状に不満を招いたと理解しよう。そうしたら不思議な事に周囲の協力者たちだった同僚に不満を感じていた自分に焦点が向き始める。自責の念が新しい環境への動機となり、目標を達成した時点で新しい目標への強迫観念のようにこびりつく自分への呪いにも似た雰囲気が醸し出される。そんな単純な表現で今の自分は理解できないという自責と問題解決への矛盾を維持する事が現状維持に役立つ誤解を構築することとなる。
難しいと感じるのは、簡単に済ませられないからであり、簡単に済ませられるものは問題と認識しないという頭の使い方に一種の癖が見て取れるようになる。一連の時間の推移が問題と感じる塊や偏りにわだかまりが一辺倒な方法による解決を実践できない事が脳内再生によって不満に維持される状態に役立つ矛盾が維持されるのだろう。

一旦は目標を達成したら手放せる段階、つまり手放す練習をしてもいいのだろうとは考えている。初めは難しいだろう、一旦手放したら、次は少し簡単に退屈さに諦めにも似たスムーズさを獲得できると思う。新しい目標を立てる準備を進める事が必要から願望に近づいていく時間が一種の決心に役立つ無駄に見える事だとは思う。過去はもう過去なのだという脳内再生によって現実が維持されているに過ぎない。

今は今

脳の複雑さは分別を超えて再生される。
しかし、思い出さないなんてことはない。
忘れるのは上書きされる更なる感情の渦によってしか実現されない。
叫び出したい感情は上級者の実践によって収束する洗練された技術によってコントロールされていくのだ。
繰り返し実践する上級技術により、自信の経験が静かな時間に揺蕩う光の水面に見えるようになるに過ぎない。

未来につなげるべき情報とは

面白いものは今も昔も実際は大差ない。その程度には大量の情報のインプットが必要になる。意識するしないはあまり関係がない。意識されるのは脳の作用に過ぎない。その程度にはいいものも、悪いものも、一定の目的に収まる分類はされていくものなのであろう。混乱を引き起こす状態や観察は渦の渦中でも見定めたかったかつての目標の残滓に過ぎない。結果が良くとも悪くとも、渦中を過ぎた後ならば生き残った証だと認め、改めていい悪いの区別を意識して実施すれば良いだけの事。

記録が役立つのは唯一の生き残りである自分自身の記憶に記録との比較で自分の意思が確認できる時間と記憶の連続性の思い出、または紐づく共感に過ぎない。
実際問題、楽しいと思う時も辛いと思う時も大きな氾濫する情報に溺れる渦中ではなかっただろうか。明確に目指す目標に意志を持って狙い澄ましたその瞬間に相反する状態が引き起こされたように目標達成につながった自分が認めるゴールに辿り着いた時ではないだろうか。(正直なんのことかはわからないが、頑張っている時ほど落ち着いた方がいいのは事実)

結果としての洗練された情報とは、失敗に落とし込められたかつての成功体験が環境の変化に伴う基準境界面のコストパフォーマンスの変化が認められる厳しくも有効な実践内容だったのではないだろうか。複雑さを取り除けば、予算に伴う実践課題と実践時間の両立を果たす練習量確保の計画に成功体験が生まれたのではなかっただろうか。

感情面、身体面、その両立を実現する実践内容は一種の盲目から取り組むシンプルな練習によって実現なしえた結果になっているのではないだろうか。かつての基準よりは低い実践内容になっていても実現する結果は複雑さを超えて安定した技術として実現されている。単純さを用いて表現するなら、あれだけ練習したんだからできて当たり前という感覚にも似ている。盲信とは疑いを排除して劣った目標でも実現しようとした練習時間のことではないだろうか。
今や、思い出すのは過去の栄光の映像ばかりになってしまう。記憶の魔法とはそんな寂しさを伴う疑いを超えた裏切らない事実になっていると思う。実際に会いにいくのはそのために必要な儀式的な時間のことを言うのではないだろうか。

今働く環境はどんな所か

結局のところ、仕事とは人にまかせられた繰り返し簡単に誰にでも提供される範囲での作業に過ぎない。専門性が高まる程に理解よりも先に結果がやってくる内容に信頼や信用が実現されていると理解している。本人が実施するよりも簡単にしてくれる一定の基準には、ある程度の協力が不可欠ではある。しかし、信頼や信用の曖昧さは第三者的な観察が必要な要素でもある。そんな矛盾や相反性に動悸が必要になる実現の為の環境構築に役立っていると考えている。

複雑さとは、ルールの煩雑さや機械の使用による確認作業の手間にも関係していると考える。決して感情が優先された結果ではないものだと理解しなくてはいけないと考えている。理解の浅さが感情を呼び、結果の不提供につながってはいけない。練習量の少なさが原因の不満足な結果には決して妥協してはいけない。検証や再現性の確認に振り返りよりよくする練習が欠かせない。
自分自身の信頼性の維持構築に役立った時間は単純な反復練習が役立った。

倉庫作業の時には、日々のトレーニングをアプリを利用した家計簿、トレーニング記録。
ルート配送では、備品管理の記録。
転職期間では、日記と自己学習のための記録装置の研究。

実際には、こうして見てわかるものではあるが、裏腹な実践タイミングではないだろうか。現代では最高に洗練された結果に触れていると言うことを忘れてしまってその上で更なる効率と効果を追い求めているように信じ込んでいるかのようだ。
しかし、実践においてはどこに目標があるのか不確かなまま追い込む自分自身に疲弊する方が先なだけなのはなぜだろうか。そんな疑いを待つ時間に自身の経験を基にした再現される感情に一種の安堵が生まれ、次のいつくるかわからない機会に準備を傾けているのである。

働く目的はどこに置くべきか

この10年ほどの時間をかけて、自分の健康について研究を進めてきた経験から気がつく事がある。人類はどう考えても食べ過ぎている。そんな時間を享受している。ダイエットという生活スタイルを通しても食べ過ぎている。つまり、食べるために時間を費やす事は現実的な感覚ではない。といいつつも、食べることが人類の基本的な動機なのは避ける避けないの問題ではないほどに切実な内容である。
哲学や精神性には一連の限界がある。そんな限界と戦うことすらアホらしいと感じるくらいには情報が溢れている。学ぶことを通して得るものはどんなものがあるだろうか。手放さない事と得る物の間にはどんな思考が必要だろうか。人には避けては通れない問題があった。そういった問題には一応の解決策は用意されてはいる。それでも避けられない事態もある。どうせ忘れてしまうのに、また思い出す過去の一瞬のように。生き残り、実現した目標には過去の自分の経験も挟まれている。その瞬間を境界や基準を変える時くらいは思い出してあげる事が必要なのだろうと諦め持って取り組んでしまった。

諸先輩を伺うに、かつてのその一瞬を手放さなかった人たちもいる。その人達にも一定の敬意を持つ事で自分の基準への混乱をもたらす機会として認める事で自分の成長に役立てる一連のプロセスとして取り組むことにする時もある。楽しい時もあれば不愉快な時もあるが、両立しないその時間は不思議に感じる一連の矛盾を確認できる便利さに役立っている。感謝したって惜しいくらいに勿体無い。

自分の中にも無駄になる時間は存在している。迷い、悩み、苦しむことに浸る時間を手放さずにいると感じられる。しかし、ここで少し遠くから見て欲しい。無駄に感じる時間には大きな視点では、必要に応じて発生しているという一定の時間に過ぎない。練習量に応えるその無駄に見える時間は狙い澄ました本当に欲しいと思う時間に答えを準備していた代償になっているだけだと思うことにしている。贅沢は望んでいなかった過去の生き残りに僅かでいい、未来の生き残る祖先に先に与えるようにして見てはいかがだろうか。そんな風に考えるとまた面白い時間が待っている事も考えられるようになる。学習が役立つのはそんな時間だと先輩方に教えていただいた。楽しみにしている。

結論

この時代、日本は戦後を忘れようとしている。彼の国では数の限界にタッチしようとしている中、想定の範囲だった境目に遭遇しようとしている。人口が減りゆくこの国で明らかな基準の違いを世界に見せつけている。しかし、現実は変わらない。地球規模で考えれば歴史上、さまざまな地域で発生したに過ぎない混乱が人の世界で起きている。些細な現象が人のせいで世界的な混乱として扱われている。一定の基準が浸透しただけで世界とは一線を画す情報を獲得する結果となった瞬間があった。問題を解決するのには役立ったわけではないが、数の力とはそんな程度だとも理解できる。

自分自身の経験から言えることは、一つのアイデア、一つの基準が変える現状へのバランスの影響力というのは体験を通して実践する事ができた。相談する事の無駄は実施するかどうか、実践するかどうかに過ぎない。計画とは永遠に効果を発揮する考え方ではない事が理解できる程度には知識が必要な考え方だと身につける事ができた。先生に習ったものはその程度の効果のものだった。この考え方は形を変え、ずっと役に立つものであると信じていられる。かつての盲信はバランスを伴い、一種のサイクルとして役立つ時間を構築するに至った。

洗脳や信仰にバランスする数字の魔法はかつてないほどに強力な力を持っている。機能に役立つ簡略化は人生のそこかしこで役立つ。無駄を覚悟しての実験は自分の経歴に一定の効果をもたらす正しい方法が存在する。約束は契約を伴う二重の実践で安定と安心が信じられるようにも思える。記録は一定の幅を約束する一種の感覚なのだろう。相談するための舞台装置としては疑う暇を少なくするのに役立つ。結果としての新しい働き口にてスムーズな交渉時間を獲得するのに大きく役立った。情報交換は速やかに確実なものとして行える事が信頼と信用を安全安心に勘違いするのに役立つ。練習をより効果的なものにできる時間を準備する事できっとあなたにも役立つ事だろうと思う。
早口に感じるのは、きっと、まだ準備が足りないだけなのではないだろうか。そうやって自分を抑え、一般的に見える基準に、情報や数値化された自分の経験を蓄積する事は自分を取り巻く環境の変化を観察するのに役立つかもしれない。自分ができることを増やすのは、自身の成長を確認する情報の断片になっていく。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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