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珈琲原風景

ー いつもの缶から、いつもの匙で、いつもと同じ分量、珈琲の粉をセットして
水を分量まで注いで、蓋を閉めて スイッチを入れて

あ、サーバーに砂糖を入れるのを忘れてた

ねえ、いつも何杯だっけ?

え?砂糖、少なくなった?
あれ、おかんは飲まないの?

あ、そう、そうなんだ、わかった…


久々に帰省した時、実家の、毎朝の珈琲の淹れ方が変わっていた。
なんでも、父は少しだけ砂糖を控えることを覚え(元は大匙三杯くらいは入れていた気がする、さすがに小匙だったか?)、母は逆流性食道炎により、近頃は刺激物は控えているそうだ。

そうか、そうなんだ。

ねえ、もうすぐ入るよ。おかんはなに飲むの?え?白湯?
あ、そう。
じゃ、先いただくよ。

膝の上に乗ってきた猫の尻尾を指で挟んでこねくり回しながら、

そうか、そうだよな、変わらないものなんてこの世にないよな、
寝巻き、そろそろ着替えないとな、などと考えた。


物心ついた時から、我が家の朝は珈琲で始まった。

豆は豆屋に買いに行ったり、スーパーマーケットで買ったり。
豆屋に行く時は、特に一緒にくっついて行った。珈琲豆がチョコレイトをまとったお菓子が買ってもらえるから。
じゃりじゃり、甘くて、少し苦くて、噛んだ後、珈琲豆の細かいのだけ舌に残る、あの感じ。
チョコレイトと、ホワイトチョコレイトのやつがあって、ホワイトチョコレイトの方は、チョコレイトの方よりも、数多く食べたら、小言を言われた。ホワイトチョコレイトの方が、甘いから虫歯になりやすいんだそうだ。


久々に地元の、その豆屋のことを思い出して調べたら、もうすでに撤退していた。
時代にそぐわなくなったのだろうか。それなりの戦略が練れなかったのだろうか。
人々の生活様式が、違うものになったのだろうか。
もう一度、あの、インディアンの、橙色したロゴの珈琲豆屋で、豆を買ってみたい。


ー わたしは、毎朝、珈琲を淹れて飲む。
布団を出て一番に、湯を沸かす。顔を洗ったり、髪を整えたり、洗濯物の準備をしていたら、あっという間に湯が沸く。

自分のために淹れる珈琲。

ブラックで飲むようになったのはいつだろう?
そもそも、初めて自分で珈琲を頼んだのはいつ?
美味しいと思ったのは?
毎朝欠かさずに飲むようになったのは?

今では欠かせないこの毎朝の珈琲、やらないとなんだか一日中、尻の座りが悪い。

東京での自分の日常にすっかり刻まれた、なんでもない一場面。
ほんとうに毎日、続けていることって、これしかないかもしれない。

珈琲は、間を持たせてくれる。
ひとりの手持ち無沙汰も、そわそわした気持ちも、嬉しい気持ちも幸せな気持ちも、さみしい気持ちも。
誰かとの微妙な距離感も、親密なつながりも。

ちょっとお茶でも飲みに行こう、って、なんて豊かなんだろう。


そんな珈琲、思い出したのは、もとは実家での毎朝の習慣だった。

サーバーに、砂糖が入っていて、液体が落ち切ったらよく混ぜてからカップに注ぐ、あのでろでろに甘い、黒い液体。
ご飯と汁物、たまごや魚と一緒に飲む、甘い珈琲。
膝には眠そうな顔しながら、テーブルの上の隙を狙っている、愛猫。

珈琲、なんでもない習慣だったけど、毎日の仕切りのような、同じ屋根の下暮らす者の間を取り持つような、役割をしてくれていたように思う。
どんな素晴らしい出来事も、めちゃくちゃな話も、絶妙な空気感も、あの珈琲は知っていて、いつも同じ湯気をたてていた。夏は氷と一緒になって、カランコロンいったりして。澄ました態度で、ぜんぶ見ていた。

私のことを一番知っているのは、もしかしたら珈琲かもしれない、とふと思った。
カップを包み込む手の感じとか、口に持って行く頻度とか、ひと口の量の感じとか、きっとそういうので、全部見透かされている気がする。


自分に淹れる珈琲ももちろん良いが、
人に入れてもらう珈琲、格別に美味しいことを知っている。
仕事の合間や終わった後、ちょっとサボったりした時に喫茶店で飲む珈琲、最高に美味しいことを知っている。
人のために淹れる珈琲の特別感も、知っている。これは、知っているつもりかも。伝わらなければ、意味がない。だから、伝わるよう、限りを尽くす。扱い方、差し出し方。

変わらないことがないこの世界で、変わらず人々の傍にいて、なんてあったかいんだろう。珈琲。

ただの名詞、珈琲、ただの名詞ではない珈琲。

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進まない仕事、ずっと放置したあの件。
今日も とりあえず 茶でもしばくかなぁ〜。

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珈琲原風景、ありますか?
珈琲豆をチョコレイトで包んだおいしいお菓子、あったら教えてください。

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