【雑記】第8回横浜トリエンナーレ「野草の肖像」で感じたアートの力
先日、横浜美術館での展示に加え、トークイベント「第8回横浜トリエンナーレ 北島敬三+森村泰昌と語る『野草の肖像』」に参加してきた。
まずは展示そのものから。
横浜美術館の展示室に入るとはじめに感じるのが、雑然としているということ。
会場にはどこか争いの雰囲気があり、戦争の音を声で再現するビデオが大音量で流れている。
血液や死体の描写。
時折会場に響くベルの音。
世界から集められた作品群は、昨今の不安定な世界情勢を反映している。
果たして、トークイベント冒頭、この「雑然」という言葉が話題に上がると、うんうんと頷く人が多かった。
私とおなじことを他のトークショーの参加者も感じたのだろう。
曰く、野草という題は魯迅の作品から取ったとのこと。
「野草とは、Wild Glass。もういちど日本語にすると『雑草』である」と。
それを聞いて、なるほどこの雰囲気は意図して作られたものかと、腑に落ちた。
それにしても、館長の蔵屋氏の要約力には脱帽した。
対談の中で内容が複雑化しても、要点を聴衆にわかりやすく、かつ補足をして伝えていただけた。作品について思想的な話も出る中で、私がおぼろげながらも理解できたのは氏のおかげである。
野草の肖像
クイーンズスクエアにて。
曰く、「魯迅という中年男性に、中年男性の森村氏が「扮装」している。
だからこの作品は対なのだ」と。
有名人でない、いわゆる普通の人を大伸ばしにして大通りに展示するとどうか。
普通の人とは何か。
美術館という枠組みの外で、アートがどのように受け取られるか。
このように、様々な問題提起がなされているように思えた。
実際、人通りは多くとも立ち止まって見ている人はほとんどいなかったが、作家はそれを逆説的な成功と称していた。私はこれがとても印象に残っている。
また、作品が美術館という教育的な空間を出て、公共の施設の中で流し見されるのでも良い。どこか記憶の中にあったら良い。とも語っていた。
美術館にあるとなんとなく価値があるように思えるが、過去にはそれを風刺した作品がいくつかあった。今回の「野草の肖像」もそれと似たにおいがして、考えさせられる実験的な作品だと思った。
クィーンズスクエアを訪れることがあれば、作品とともに、その前をいそいそと歩く人々を眺めててみてほしい。
終盤、蔵屋氏は、横浜美術館にある日中交流の版画の展示になぞらえ、「国同士の仲が良くなくとも、人同士はそうではないはず」と語っていた。
各国の情勢に緊張感が漂う昨今、横浜美術館ではアートを通じた問題提起がなされていた。これは警鐘であると同時に、人々が手を取り合う契機にもなろう。
今回は、横浜美術館および横浜トリエンナーレの感想を「雑記」としてしたためた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
(おしまい)
一部を除き、SIGMA fpと45mm F2.8 DG DN | Contemporaryで撮影しました。
小型軽量でシャッター音もしないため、美術館や博物館での撮影に好適です。
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