聖書のお話「信じること、祈ること」2022年2月
はじめに
私が牧師として教会でお話ししている内容を
少しずつ公開しようと始めました。
ちょこっとのぞいてみる感覚でどうぞ。
今回は「祈り」。
祈ったことなんてない、という方にとっても
通じる感覚があるでしょうか。
音声はこちら
https://www.fujibapchurch.com/app/download/12420348957/2022.2.20.mp3?t=1661878480
聖書本文 マルコによる福音書9章14節~29節
お話
「祈り」とはなんでしょうか。それは、もうだめだ、もうどうにもならない、私の力ではもうどうすることもできない、そんなときに、私の力を超えたなにか、大いなるもの、私たちが神と呼ぶような大きな存在や力に対して叫ぶ、嘆く、すがる、懇願する、そのようなものではないかと思います。私たちは、私は、「祈る」ということを知っているでしょうか。私が最後に祈ったのはいつでしょうか。皆さんの人生には、切実に「祈る」「祈る」しかない、そんな状況がおとずれたことがあるでしょうか。そのような状況に、繰り返し、日々、今のこのときにも、そのような状況に置かれている方がいるでしょう。そのような状況においてこそ、私たちは目に見えないなにか、神という存在やその力に出会わされる、のではないでしょうか。
今日の聖書の箇所には、ひとりの父親とその息子、彼らを取り巻く人々、そしてイエス・キリストが登場します。「息子」と呼ばれているこの人の様子は、現代で言えば「てんかん」という脳の障がいを抱えている人のようです。先月から繰り返しお話ししていますが、聖書の時代は今から2000年前、今のように医学も科学も発展していない時代です。説明のつかない、わからないことがらというのは、目に見えない霊のせいだと言われていました。「悪霊に取りつかれている」という言葉は、その人はおかしい、普通ではない、もうだめだ、もう手に負えない、そんな意味の言葉でした。線を引いて人を区別する、いや差別をして、遠ざける言葉でした。「あの人は悪霊に、汚れた霊に取りつかれている、罪人だ」驚くべきことは、実はキリスト教会が信じ、礼拝しているイエスというお方も、当時ユダヤ人たちから、しかも家族や親戚から「汚れた霊に取りつかれている」と言われていたということです。どうしてか。社会においてそのように言われ、差別され、排除され、人々が近づかないような人たちと、イエスは一緒に過ごしていたからです。イエスは「罪人と食事をする人」と呼ばれていたんです。この場面でも、おそらく「てんかん」のような症状を抱えていたこのひとりの人は、人々から「霊に取りつかれている」と言われていたんです。
今日の場面でとても残酷なのは、そんな大変さ、生きづらさ、こんなふうに言葉にしてしまうことすら残酷と思える、壮絶な状況のなかで長年生きていたこの人とその父親が、人々の間でまったく見えなくされてしまっていたということです。14節からもう一度。
「助けてほしい」とお願いしたのに、声をあげたその人たちがいつのまにか見えなくなってしまう。人々は「議論」していた。この病気はなんなのか?弟子たちにはどうして治せなかったのか?そもそもどうしてこの人はこのような霊に取りつかれたのか?その原因はなにか?誰のせいなのか?このことをどう考えたらいいか?いったい私たちはどうするべきか?そんなことを、苦しんでいる当人たちを脇において「議論」していた。当人たちから、苦しんでいる当事者から話を聞くのではなく、共感するのではなく、寄り添うのではなく。今日の場面、人々の間では、実は最後まで当事者が不在です。イエスによってこの人が立ち上がったあとも、人々は、弟子たちは、そのことを喜ぶのではなく、「一体どうやって病気が治ったのか。どうして自分たちには霊を追い出せなかったのか」そのことにしか関心がない。とても残酷な光景が描かれていると思います。
しかしそのなかで、イエスが語ったのは次の言葉でした。29節「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。「祈り」が必要なのだ、ということです。ここでイエスが語った「祈り」とは、どういうことだったでしょうか。
今日のこの場面で祈ったのは誰でしょうか。イエスが祈っています。イエスは、人々の中に埋もれ、見えなくされていた父親に声をかけ、その息子に目を留めました。「このようになったのはいつごろからか」苦しみのそのただ中にいる人に寄り添い、その声を聞こうとされました。どれほどの苦しみがそこにあったのか、そのことに関心を向けられた。そんなイエスの「祈り」は、人を再び立ち上がらせるものでした。人々に「もうだめだ、手に負えない、汚れた霊に取りつかれている」そう言われて、人々に見捨てられた人、線を引かれ遠ざけられていた人、「死んでしまった」と言われ諦められてしまった、その人の手を取って、もう一度立ち上がらせる、そのような「祈り」でした。その人が生きることを諦めない、その人がもう一度立ち上がることを信じる、そのような心、信仰による「祈り」…そんなイエスの「祈り」が、その人を再び立ち上がらせたんです。
また倒れていたこの人の、父親が祈っています。人々が「もうだめだ、手に負えない、汚れた霊に取りつかれている」そう言われて人々に見捨てられた息子を、この父親は諦めずに治してほしいと、弟子たちのもとに連れてきた。イエスのもとに連れてきた。22節の「おできになるなら」という言葉は、一見謙遜な言葉のように見えますが、この父親自身も、人々から疎外され、差別されていたのではないかと感じさせられます。「あなたが悪いから、息子はこうなったのだ。息子がこうなったのはあなたのせいだ。あなたの家系は代々神に呪われた家系なのだ」そんな呪い言葉を、繰り返し掛けられながら生きてきたのではないか。それでもこの父親は息子を諦めなかった。この人もまた、自分の息子が生きること、もう一度立ち上がることを信じる、そのような心、信仰によって、この時祈ったのだと思います。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と。
しかしここで、この父親もまた、当時の社会、人々の間にあって見えなくさせられてしまっていたことがあったのだと感じさせられています。それは、息子の言葉、息子自身の「祈り」です。17節で父親は言っています。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません」「この子は霊に取りつかれていて、ものが言えません」本当でしょうか。息子と呼ばれたこの人、倒れ、もがき苦しんでいたこの人は、「ものが言えな」かったのでしょうか。この人のそのもがき苦しむ姿そのものが、この人の言葉、この人の「祈り」だったのではないでしょうか。
25節で、イエスは次のように祈っています。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」イエスが語った「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」とは、一体なんだったでしょうか。私はこんなふうに思うんです。この人の周りにいた人々や、この人を取り巻く社会が、この苦しんでいた人にものを言わせなかったのではないか。誰も、この人の苦しみに、また父親の苦しみに耳を傾けなかった。苦しんでいる人の叫び、嘆き、「助けてください」という、当事者からの言葉を聞くことができない、そのような「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊・空気」が、当時の人々の間に、社会に、得たいの知れない霊・空気のように、もやもやと立ち込めていたのではないか。そのことについて、イエスは嘆き、怒(いか)られたのではないかと。
人々から、父親からさえも「霊に取りつかれていて、ものが言えない」そのように言われていたこの倒れていた人自身もまた、言葉にならない声をあげて、必死で祈っていた。イエスは、その「祈り」に、叫びに心を留められ、その人の手を取って起こされたのだとそう思うんです。人々の間で、社会の間で、見えなくされている、聞こえなくされている存在しないものとされてしまっている、そのような存在に、命に目をとめて。
「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」
「祈り」とはなんでしょうか。それは、もうだめだ、もうどうにもならない、私の力ではもうどうすることもできない、そんなときに、私の力を超えたなにか、大いなるもの、私たちが神と呼ぶような大きな存在や力に対して叫ぶ、嘆く、すがる、懇願する、そのようなものではないかと思います。私たちは、私は、「祈る」ということを知っているでしょうか。私が最後に祈ったのはいつでしょうか。私たちの間で、隣から、すぐ近くから聞こえてくる「祈り」があるでしょうか。「ものが言えない」のではない。ものを言わせてもらえない。必死で声をあげているのに、聞いてもらえない。無いことにされている、そのような声が、「祈り」があるのだと思うんです。「祈り」それは、希望を信じる、希望にすがる、生きようとする、そのような人の命の叫び、「助けてください」と、誰かから発せられる言葉、伸ばされた手です。私たちの間にほとばしる、そのような「祈り」に私たちは耳を傾けたい。また、私自身も諦めずに、そのような「祈り」をもって、今日を明日を生きていきたいと思います。私の「祈り」を聞いてくださる神さまと、またあなたと一緒に、生きていきたいと思います。