「十字架を背負う」という言葉
「十字架を背負う」
遺されたその言葉について
これはどういう意味の言葉なのだろうかと
ここ数日考え続けています。
以下、少し長くなります。
「十字架」それは
古代ローマで主に使われていた死刑のための道具。
死刑囚を磔にし、体力の消耗や窒息
失血によるショックによってその命を奪う。
死刑囚は自身が磔にされる十字架を
処刑場まで自身で背負って運んでいったとされ
そこから「十字架を背負う」という表現がなされる。
また聖書にはイエス・キリストの
弟子たちに対する次のような言葉が記録されており
それが元になって広まった言葉だと思われる。
言わずもがな、このイエス自身も
この言葉の後に「十字架を背負う」
そして磔にされることになる。
ただ、私は疑問に思う。
なぜイエスは、自身が「十字架を背負う」前に
この言葉を弟子たちに語ったのか。
愛と赦しを説いたイエスが
古代ローマの残虐非道なその処刑方法
「十字架」という暴力を
肯定的に話すということがあり得るのか。
私は「イエスの十字架」は
決して私たちが目指すべき手本のようなものではなく
本来、決してあってはならない残酷な現実
愛情さえ、救いの手さえ受け入れることを拒んでしまう
そんな、私たち人間が抱える悲惨な現実を表しており
もうこれ以上、誰かを「犠牲」にしてはならない
もう二度と、誰かが「十字架」に架けられるようなことは
あってはならないという、命と平和、非暴力への
強いメッセージを表していると信じている。
先のイエスの弟子たちへの言葉は
本当にイエスの言葉だったのだろうか。
「イエスの十字架」を美化しようと
思ってしまった弟子たちが
生み出した言葉なのではないかと
そう思ったりしている。
誰かのために、誰かが「犠牲」になる
それはとても悲しいこと。
あってはならないこと。
ましてや不当な力のために、暴力のために
誰かが「十字架」を"背負わされ"
「十字架」そして「死」へと
"追いやられて"いくことなど
決してあってはならない。
そんな「十字架」など捨てていいから
誰も「犠牲」にならなくていい
そんな未来を一緒に生きてほしい。
イエスが弟子たちに語った「神の国」は
誰も「十字架を背負う」必要のない
そんな未来だと私は信じている。
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