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聖書のお話(シリーズ"平和"#1)「平和を告げる言葉」2022年夏

はじめに

この度、普段教会で私がお話ししている内容を、
少しずつ公開しようと思いたちました。
ニーズがどれだけあるのかはわかりませんが、
「いったいどんな話をしているんだ?」と思われた方、
ちょこっとでものぞいてみてください。

読むのも大変だと思うので、音声も用意しています。(20分くらい)
音声は礼拝で当日読み上げたものなので、
原稿とところどころ異なっていたりします。
それもまた、聴いてみてください。

実際の教会の礼拝も、いつでも、どなたでも、
信者でなくてもご参加いただけますので、よろしければ。
勧誘もいたしません。献金の必要もありません。
オンラインで、Zoomからでもご参加いただけます。
疑問に思ったこと、引っかかったことなど、お気軽にお声掛けくださいね。
皆さんの声から、学び続けていきたいと思っています。

2022年夏のシリーズ"平和"
第一回は、平和のための「力」「抵抗」「言葉」……そんなテーマです。

音声はこちらから

https://www.fujibapchurch.com/app/download/12448859457/2022.8.7.mp3?t=1661878480

聖書本文 エフェソの信徒への手紙6章10節~20節

10.最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 11.悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 12.わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 13.だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 14.立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 15.平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 16.なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 17.また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 18.どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 19.また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 20.わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

『聖書』(新共同訳)より

お話

 イエス・キリストという人物がユダヤ・イスラエル地方に現れ、その当時社会で弱く貧しく小さくさせられていた人たちと共に生き、神の愛について教えられた、そのできごとが起こってから2000年と少し。いまや、世界中に広がっているキリストの教会も、はじめは10数人のキリストの弟子たちの集まりから始まりました。イエス・キリストが、当時の支配者たちの力によって、十字架の上で無惨に殺されたあと、その死に直面し、一度は悲しみと恐怖で散り散りになりかけた弟子たちが、再び集まり出す……そして、イエスの復活というできごとを証しし始め、イエスが生きたように、彼らもまたあらゆる人々と共に生きるという生き方を実践し始めた、それが、世界で最初の教会のはじまりでした。その教会の集まり、共同体の姿は、当時の社会の人々の目には不思議に映り、その不思議さに恐怖を覚えたり、危険視したりする人々もいた。そうして、周りの人々や国から迫害・攻撃を受けるようになった各地の教会…それらの教会を、またそこに集まる人々の信仰を励ますために、当時の教会の教師たち・宣教師と呼ばれる人たちによって、数多くの手紙が書かれました。その一つが、今日までお読みしてきたエフェソの信徒への手紙です。手紙の送り主は、「最後に」と言って、次のような言葉を書き送っています。10節。

10.最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

『聖書』(新共同訳)より

 「強くなる」とはどういうことでしょうか。今日この10節のあとには、武具の例えが出てきます。「神の武具を身につけなさい」身を守る防具の一つひとつ、そしてその最後に剣が出てきます。それらはなんだか、イエス・キリストの教えと反対することのように思われます。弱く貧しく小さくさせられていた人々と共に生き、最後まで非暴力を貫き、暴力によって戦うことをしなかったイエス。そして最後には十字架にかけられて殺されてしまったイエス。イエスが十字架にかけられるために捕らえられてしまう直前、弟子のうちのひとりは、自分たちの先生であるイエスを守るために、剣によって戦おうとしました。そのできごとは、マタイによる福音書の26章の終わりに書いてあります。その時、イエスはその弟子に対して次のように言われました。マタイによる福音書26章52節「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。このことからもわかるように、イエスは武器をとって戦うことを願っても、教えてもおられません。それなのに、どうして今日のこのエフェソの信徒への手紙の送り主は、このように書いているのでしょうか。
 今日の箇所を注意深く読むと、それらの武具は、攻撃によって相手を傷つけるためのものというよりも、相手の力に対抗するためのものであるということがわかります。
 11節には「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」13節には「邪悪な日によく抵抗し、しっかりと立つことができるように」と書かれていました。「対抗し、抵抗し、しっかりと立つことができるため」そのための武具を身につけなさい、というんです。何に対する対抗、抵抗なのか。12節には「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」と書かれています。それは当時、人々の間で「悪い霊」「悪霊」と呼ばれていた、得体の知れない力です。エフェソの信徒への手紙においては、そのことが繰り返し書かれていました。私たちの間にある「隔ての壁」、私たちの間に、仲間だと思っているお互いの間にさえも生まれる「敵意」……私たちは、お互いと出会うとき、向き合うとき、その相手がどんなに大切な存在であっても、仲間だと信じていた相手であったとしても、簡単に敵意を抱いてしまう。そして壁を作り、線を引いて、別れてしまう。共に生きることができなくなってしまう。そんな、得体の知れない力のようなもの、認識することも、抗うことも簡単ではないそのようなものが、私たちの間にある。そうして私たちが、互いに敵意を抱きそうになるとき、お互いを攻撃し、傷つけてしまいそうになるとき、そんな誘惑や衝動に駆られるときに、それらに負けないでしっかりと立つことができるために、武具を身につけなさいと言われているんです。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」何によって、どのように強くなるようにと言われているのでしょうか。「主(なる神さま)の偉大な力によって」それは、イエス・キリストが弟子たちに、また私たちに示してくださった、隔てを越えていく、線を越えていく、差別や暴力を超えていく、平和への道です。そのことが「神の武具」としてどのように表現されているでしょうか。

14.立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着けなさい。

『聖書』(新共同訳)より

 「真理」「正義」それらは、手に取って、相手を傷つけるための武器ではないんです。自分の身を引き締め、命を守るための防具です。私たちはもしかすると、防具であるそれらを手にとって、振り回して、誰かを攻撃しようとしてしまっているということがあるかもしれません。「真理」「正義」それらは私自身の命を守るための防具です。攻撃を受けるとき、それらはきちんと私の命を守ってくれるでしょうか。それらは、私の命を守るものとして機能しているでしょうか。私はそれらを、自分を守るものとして、きちんと身につけられているでしょうか。歪んだり、外れたりしていないでしょうか。きつく締めすぎていないでしょうか。自分を守るためのそれらのもので、自分の体を締めつけ、自分を苦しめていたりすることはないでしょうか。

15.平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

『聖書』(新共同訳)より

 「履物」それは私たちが前へと歩みを進めるために必要なものです。それは「平和の福音を告げる準備」である。私たちが「しっかりと立ち」進んでいくのは、私たちの目の前にいる誰かと争ったり、相手を傷つけるためではない。私たちの間に、「平和の福音」を告げるためである。そのために、歩み続けることができるために、その「平和の福音」をきちんと履いておくこと。自分の足のサイズにあった履物、長い距離を歩いても靴擦れを起こしたりしない、使い慣れた、自分の足によく馴染んだ履物。イエス・キリストが私たちに示してくださっている「平和」を、普段からそのように準備しておくことが語られているのだと思います。

16.なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

『聖書』(新共同訳)より

 「信仰」は、どこからともなく飛んでくる矢のような攻撃から、身を守るための盾にたとえられています。飛んでくる矢は火の矢。もしそれを身に受けるならば、その部分から全身に炎が燃え広がり、焼き尽くされてしまうかもしれない。そんな恐ろしい矢、危険な矢から「信仰」は私たちを守ってくれる。どこからそれが飛んでこようが、私たちは「信仰」によって守られている。この「信仰」という言葉は、私たちの信じる心、神や人を信頼する心であると同時に、神さまが私たちをあきらめずに信頼してくださる、その神さまの信頼、神さまの「真実」を表している言葉でもあります。神さまはどんなことがあっても私を諦めない。私と一緒にいてくださる。その希望を手にしているならば、私たちはどこから、どんなできごとが襲ってきたとしても、それらに焼き尽くされることはない。

17.また、救いを兜としてかぶりなさい。

『聖書』(新共同訳)より

 この「救いの兜」という言葉が一番難しいなと思います。私たちの頭、命を守る救い。私はそれを身につけているかどうか、頭の上なので、自分の目で見て確かめることができないというのは、象徴的なような気がしています。確かに頭の上に乗っている感覚はある。でも、それがきちんと頭を守るものとしてきちんと機能しているかはわからない。手でさわって、鏡で確かめて、いつも確認していたいと思います。私は「救い」を身につけているだろうか、と。

 ここまでは防具です。私たちが互いに敵意を向け、互いを傷つけようとしてしまう誘惑や衝動から身を守るために、身につけるべき防具。そして最後に、唯一の武器として、剣について書かれています。17節。

 17.…霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。18.どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。19.また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。20.わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

『聖書』(新共同訳)より

 神の言葉である「霊の剣」…それが、私たちにとって唯一の武器である。「神の言葉」それは「御言葉」といわれる聖書の言葉、平和の主であるイエス・キリストの言葉といってもいいでしょう。聖書は、イエス・キリストのその姿こそが、神の意思を表している、「神の言葉」であるとも語っています。しかし、私たちはそんな「神の言葉」の剣を、誰かを傷つけるために振り回していいわけではありません。先週も、「罪」という言葉について、教会がそれを、人の恐怖を煽るために使ってしまっていないか、ということについてお話ししました。そのようなとき、イエス・キリストは言われるでしょう。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。19節20節には「適切な言葉」とか「語るべきこと」とも書かれています。言葉というのは簡単に人を傷つけてしまえるものです。それが「神の言葉」聖書の言葉、イエス・キリストの言葉であっても、いつでも振りかざしていいわけではない。適切に、語るべきときに語られるべきである。しかも「神の言葉」それは、19節では「福音の神秘」と書かれています。「神秘」ですから、どのような秘密がそこに隠されているか、わからないこともある。私たちは聖書をいくら読んでも、神について、愛について、平和について、完全に理解することなどできません。よく教会で、牧師は聖書についてなんでも知っているかのように言われるのですが、とんでもありません。わからないことだらけです。もし、聖書を、神を、愛を、平和を完全に理解するなどということができてしまったならば、私自身が神のようになってしまうでしょう。「私こそが神を知っている。私が考えるこれが愛だ。私が考えるこれが平和だ」そうなってしまっては、私は、自分と異なる誰かと一緒に生きていくことは難しいでしょう。私は、私自身もまだどんな力が隠されているのかわからない、そんな力を秘めた「神の言葉」、しかし確かに私自身の生きる力であるその「神の言葉」霊の剣を、日々磨いて手入れをしながら、いざという時のために、大切に鞘のなかにしまっておくのだと思います。
 イエス・キリストは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。唯一の武器であるこの「神の言葉」霊の剣もまた、平和のためにあるのです。


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