「『性自認』に基づく差別」?
トランスジェンダー
といわれる人たちの生きづらさについて
「性自認に基づく差別」という言葉が
使われることがあるが、正直よくわからない。
生きづらさや苦労、苦しい思いをされていることは
色々な方の話を聞いてわかる。
でも、それが「性自認に基づく差別」だというのが
わかるようで?わからない。
と思っていたら
当事者でもある三木那由他氏が
著書『言葉の展望台』で
「性自認(ジェンダー・アイデンティティ)を理由とする差別」
という言い回しの「おかしさ」を指摘し
「性様式(ジェンダー・モダリティ)を理由とする差別」
という別の言葉・言い回しを紹介していた。
(どう「おかしい」のかは、私が説明するよりも書籍をお読みいただければと思います)
「自認」(認識)はその人の内面に限定できるが、
「様式」(あり方)は限定できず、
他者に認識できるかたちでその人の外に表れるものだろう。
「LGBT法連合会」は
「LGBTQ報道ガイドライン – 多様な性のあり方の視点から」第2版において
「性自認」を次のように
まさにその人の内面に限定できる「認識」として定義している。
一方で、活動家などによってよく引き合いに出される
「ジョグジャカルタ原則」においては
「性自認」は 「身体に関する個人の感覚」に留まらない
「服装、話し方および動作などのその他のジェンダー表現」を含む
「内面的および個人的なジェンダー経験」と定義されており、
「様式」(あり方)のようにも読むことができる。
(日本語訳の参考はこちら)
「性自認」について
それを「認識」(個人の内面のことがら)と定義(参考:LGBT法連合会)して、
他者に一方的に理解を求めることは難しい。
一方 それを「様式」(他者にも認識できるあり方)的に定義(参考:ジョグジャカルタ原則)するならば、
他者との間で調整をはかることの必要性が見えてくるのではないか。
当事者の方で「性他認」という言葉を使っておられるのを聞いたことがある。
自分がどう認識しているか、だけではなく
他者が、社会がどう認識するかということも無視してはならないのは
自分とは異なる感覚や認識をもつ他者と共に生きる社会においては
当然のことではないだろうか。
(本記事はTwitter@plmakotoでの投稿内容を、一部加筆修正したものです)
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