映画『片袖の魚』に表れた「性自認」主義の暴力性
Twitterでこの投稿を目にし
約30分ほどの短い映画だったので
無料配信ということもあり
観てみようと思いました。
ちなみに現在も
以下のページで有料(500円)で視聴可能です。https://theatreforall.net/movie/katasode-no-sakana/
観る機会をいただけてよかったです。
率直な感想として
客観的にはわからない「性自認」という概念の一方的な主張は、
関係性の断絶を積極的に生じさせるものなのだという事実が、
とてもわかりやすく「可視化」されていました。
あらすじ
以下の画像を参照
以下、気になったシーンについて
思ったことと合わせて書きます。
卒業アルバムを見ながら
好きだった同級生の男子を思い出す
主人公の「ひかり」(イシヅカユウ)
その同級生に
久しぶりに電話をかけると
「こうき」と呼ばれる。
でもそれを訂正することをしない
これが最後のシーンまでとても疑問でした。
バーでの友人(トランス女性)との会話
ひかり 「私まだ完璧じゃないし」
友 「あんたも女でしょ?自信もちなって」
「ひかり」の言う「完璧」「自信」ってなんなのでしょう。
友人の言う「女」ってどういう意味なのでしょう。
友人たちとの再会
二人のはずが、サッカー部の男友達たち大勢と
居酒屋で再会
男友達「しっかり女性になったよね」
「今日いるメンバーのなかで、誰が1番タイプ?」
それらに対して暗い顔になる「ひかり」
それは明らかなセクハラ発言だけれど…
「ひかり」を「女性として」扱った発言でした。
このことについては
以下、少し長く思ったことを書きます。
「女性として」扱われる「ひかり」
セクハラがミソジニー(女性蔑視)であり
ゆるされない女性差別であることは
言うまでもありません。
しかし、「ひかり」のような「トランス女性」とて
「女性として」見られるのですから
それから逃れることはできません。
要するに
周囲は「ひかり」を「女性として」扱ったのです。
ミソジニーは辛かったでしょう。
しかしそれは同時に、男性たちが「ひかり」のことを
きちんと「女性として」扱っていたということです。
その事実は「女性として」扱われたいと願う
「ひかり」を満足させる事実でもあったでしょう。
(トランス女性のなかには、
女性が経験するそのような困難・差別についてさえ
「特権」であるという人たちがいます)
また同時に忘れてはならないのは
「ひかり」自身もかつてはサッカー部の仲間として
そのミソジニー溢れる“男性側”で生きていたということです。
「ひかり」自身は「ずっと前から」
「女性として」生きていたと言います。
もしそれが本当だとしたら、
友人たちの間にそのようなミソジニーが
あるということは百も承知だったはず……
この場面でショックを受け黙り込んでいるというのは
どこか不自然にも感じられます。
「ひかり」はそれを忘れてしまったのか……
それとも、かつては「男性として」
ミソジニーに荷担していたことに無自覚だったのか……
トランス女性に思うこと
私はトランス女性が、
「女性として」生きるようになったからといって、
かつて“男性側”で生きていたときに
(無自覚にでも)許容し、荷担していた女性差別から、
まるで自分が自由になった・免罪されたかのように
振る舞っていることに、大きな違和感を感じることがあります。
トランス女性は確かに
“男性側”として女性差別に荷担し、
男性特権を享受していたでしょう。
(その自覚も意図も無かったとしても)
そこから「女性として」生きるようになるということは、
その男性特権を手放し、
逆にかつて自分が荷担していた差別に
晒されるようになるということなのです。
現在の日本社会には、ミソジニー(女性蔑視)・女性差別があります。
「女性差別禁止法」もまだありません。
そのような日本で「女性として」生きるということは、
それに晒されて生きるということです。
トランス女性も「女性として」見られるようになるからには
当然それから逃れることはできません。
逆に、もしその困難を経験しないならば、
その人はむしろ「女性として」扱われていない
(相変わらず男性として扱われている)のではないかと
疑うべきでしょう。
後頭部にサッカーボール
一番気になったのは最後の方のシーンです。
好きだった男友達との別れ際、
男友達に、昔からの名前
「こうき」と呼ばれ続けていたことに対して、
突然一方的に言いはなつ「ひかり」
ひかり「私の名前、『ひかり』だから」
別れて後ろを向く男友達。
その後頭部に「ひかり」は
彼が「ひかり」にプレゼントした
思い出のサッカーボールを投げつけます。
当然、男友達は訳がわからず戸惑います。
これを観て
「当事者を理解して」ってどういうことでしょう。
「ひかり」は一度もその名前を伝えていませんでした。
自分について、自分の思いについて
言葉にして説明することがありませんでした。
ずっと黙ったまま、伝えようとしませんでした。
それなのに、突然サッカーボールを投げつけた……
そういう、他者からしたら意味のわからない
「一方的な主張」を、理解しろということなのでしょうか。
突然後頭部をド突かれるような暴力さえも、
甘んじて受けろということなのでしょうか。
立った「クマノミ」
男友達と会う前、
「私まだ完璧じゃない」と言ったシーンでは、
どうしても立たせることができなかったクマノミの置物
男友達と決別した帰り道、
そのクマノミの置物が立つようになります。
一方的に言い捨て、暴力によって、対話を打ち切る
それまでの関係性を諦め、断絶する
自分を無条件に肯定する関係性だけに
生きるようになる
そうして自己を確立する
それが「性自認」を主張するということなのだと
妙に納得してしまいました。
高井ゆと里氏のレビューから
千秋というのは
「ひかり」がバーで話していた
トランス女性の友人のこと
「性自認」主義というのは
自分の「性自認」を受け入れない
他者との関係性から自分を切り離し
「性自認」という自己認識の根を張って
それを「現実」として生きていく……
そういう生き方なのだなと思いました。
トランス女性の友人のように
周りもまた当人に
自分の「性自認」を受け入れない他者との
関係性を切り捨てること
対話をやめることをすすめていく……
そういう思想なのだなと思わされました。
「性自認」主義というのは
どれだけブレずに
それこそが、それのみが「現実」と
思い込むことができるか
そのためにどれだけ周りの声を無視し
コミュニケーションを諦めることができるか
それに掛かっているということなのかもしれません。
監督から応答コメントをいただきました
監督自身も、自身の主義主張を一方的に押し通すため、
そのために表現をしている方だったということが見てとれました。
そういう表現者もおられるのでしょうが、
もしそうであれば、自分の作品を開かれた場で公開し、
「感想」など求めるものではないと思いました。
以下、レビューサイトに書いた感想も貼っておきます。