私とキリスト教
私は、幼少期から厳格なキリスト教の家庭で育ちました。
いわゆる「宗教二世」として、家族と共に毎週のように教会に通い、礼拝に参加する日々を過ごしていました。しかし、成長するにつれて、私は自身の信仰に疑問を抱くようになりました。信仰の道を歩む中で、対話の重要性を感じるようになったのです。
対話とは、お互いの思いや考えを自由に交換し合うことです。異なる信仰や宗教の人々との対話を通じて、私は新たな視点や理解を得ることができました。そもそも、聖書に描かれた「神」という存在も、人間と共に歩まれる対話的な存在として描かれています。またイエス・キリストも、社会で弱い立場にある人々と対話し、彼らと共に生きることを選ばれました。その対話から生まれる共感や理解は、私にとって非常に大切なものとなりました。
対話は、私たちが言葉を通してお互いの経験を共有し、お互いを尊重しながら共に生きていくための大切な機会となります。信仰の有無にかかわらず、自分とは異なる考えの他者との対話を通じて、私たちはお互いの共通点や異なる部分に触れ、自分だけでは経験することのできないことがらに触れることができます。そのような対話の機会は、私たちをそれまでよりもより広く、豊かな世界へと導き、その世界で異なる他者と生きていく喜びを教えてくれるのではないでしょうか。
私はキリスト教の信者としての信仰を持ちながらも、異なる考えや価値観の人との対話を大切にしています。私は、聖書やイエス・キリストの教えから学んだ対話の精神を実践し、お互いを尊重し合い、共に生きていきたいと思っています。
私がキリスト教や他者との出会いの中で
大切に思うようになった「対話」ということについて
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