8/24~8/26

日記を書く頻度が下がり、自分が8/31に急いで夏休みの宿題を終わらせるような子供であったのを思い出す。というより、この嫌になるくらい凡庸な比喩でさえ現実よりは幾分かましで、覚えている限りでも小4と小6の夏休みの宿題は完璧に終えずに提出してしまっている。
そのことと関係あるかは分からないが、成人した昔の同級生たちとともに小学校の授業を受ける夢をよく見る。なんでも最後の授業が十年後に行われるとかで、わざわざ全国各地から卒業生が小学校に集められるのだ。教室に入り、窮屈そうに学習椅子に座る周囲の人々の可笑しげな姿を見ると、今だったら皆と仲良くなれたかもという幸せな想像と、それを仮定法でしか考えられない人間になってしまった後悔が同時にこみあげてきて、彼らの含羞をたたえた表情もまたこの相反する心情に由来するのかもしれないと思う。

8/24では集中講義終わりに人類学の院生の方を捕まえて、一時間半ほどお話しさせてもらった。彼女の研究については一方的に知っており、自分の関心と近いこともあり気になっていたので、会話できたのが嬉しかった。話題は主に「記憶」と「歴史」で、こういった抽象的な議論を吹っかけてくる後輩がいたら自分なら絶対に相手にしないと思う。ともあれ、こういうことについて少しでも話せる場があるのなら、わざわざ他大の院を受け直さなくても良いのでは、という疑念が湧き上がってきて、このときから再び進路について迷い始める。
大阪大学人間科学部から離れたい理由はいくらでもあるのだが、そのどれもが決定的な理由にはなりえていない。無論、指導教員とは方向性の違いを感じるし、研究室ではあまり心理的安全性を感じないし、学部内で哲学系の学生が周縁的な立場にあるのは常に実感している。加えて大学の立地が悪すぎるし、あと何年も今と変わらない生活を続けていても進展がある気がしない。それでも、その全てが言い訳に過ぎず、真に背景にあるのが「今の自分の置かれている環境を否定したい」という欲求に過ぎなかったとしたらどうすればよいのだろうか。あるいは、私は結局自己否定にしかモチベーションを見出せない人間なのかもしれないが。

8/25に集中講義が終わった。最終課題はどういった形態であれ構わないということだったので、詩を書いて提出しようと思った。とはいうものの未だに一切手を付けていないので、結局は締め切り直前に適当なレポートを書いて出すことになるのかもしれない。レポートと日記は一切こだわらずに書くので他のものを書くよりは楽なのだ。両者の他の共通点として、書いてから一日以上経ったら基本的に読み返すことはしないが、時々数年前のものを読み直してみると存外に面白かったりする、という点が挙げられると思う。

8/26は原稿を進める一日になった。夕方になると行き詰ってきたので梅田に行き、本と靴を買った。新訳が出た影響か、『エクリチュールと差異』が800円で買えたので嬉しかった。靴については、面倒くさくなったので高校生の頃最初に手に入れたまともな靴(それまでは親に買ってもらっていた)と同じものを買った。最初の地点に帰ってきたので、もう今後はこれしか履かないだろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?