「『デモ』について考える会」のためのステートメント

 以下の文章は、大阪大学豊中キャンパスで2024年5月31日に開催された「『デモ』について考える会」にて私が発表したステートメントです(対面での参加が叶わなかったため、文面で意見を述べる形式になりました)。内容は氏名を伏せ、誤字脱字等を修正したほかには異同ありません。
 


 はじめまして。人間科学部四年の○○○○と申します。専門は哲学で、主に美学と倫理学に関心があります。今回は授業の都合でこの会に参加できないため、このようなかたちで皆さまの議論に加われたらと考えております。
 まず、昨日のデモは色々な意味で大きなインパクトがありました。それについて大なり小なり思うところがあったからこそ、皆さまもこのような場に来られているのだと思います。そして私がデモについて考えるにあたって着目してみたいのも、まさにこの点からなのです。
 
 デモは人間の感性的な側面に訴えかけます。多くの人が集まって何かを主張するというのは視覚的なインパクトが大きいし、声を揃えてシュプレヒコールを行えば当然声量も大きくなります。そしてデモという形式が「暴力的」だと批判されがちなのも、まさにこのことに起因するでしょう。つまり、それが働きかけるのが人間の感性である限り、それはどんな人間に対してもショックを与えうるものなのです。
 例えば、あなたがパレスチナで行われていることの残虐さを理解していたとしても、デモはあなたにけたたましく語りかけてくるでしょう。あなたが声をあげることの重要さ自体は理解していて、ただ今は静かに昼食を食べたいだけだったとしても、プラカードを掲げて立ち並ぶ人々の姿はあなたの平常心をかき乱すでしょう。そういうものであるからして、デモは単に民主主義を嫌悪する人のみならず、良識と市民意識を兼ね備えたいわゆる「まっとうな人たち」からもしばしば非難の矛先を向けられます。
 デモに対するある意味でまっとうな批判とは次のようなものです。政治的問題は、感性でなく理性によって扱われるべきだ。必要なのは正しい場所(国会なり国連なり)での理知的な議論であり、人間の感性を揺さぶることに終始するのは野蛮であるだけでなく本末転倒である。議論の空間と感性的生活の空間は切り分けるべきであり、さもなければただ混沌だけが立ち現れてくるのみだ──。
 
 私のこれからの議論は、このような意見に異論を唱えようとするものではありません。ただ、感性と政治の関係について、いま一度その在り方を問い直してみたいのです(そしてそれは、美学と倫理学にまたがって研究をしている私の専門と言えるでしょう)。以下、少しだけお付き合いいただけると幸いです。
 フランスの哲学者ジャック・ランシエールは「政治とは感性的なもののパルタージュである」と主張しています。これを私なりに分かりやすく言い直せば、「政治とは〈言葉〉と〈ノイズ〉の分割である」とでも纏められるでしょう。つまり、私たちはある人たちの声は〈言葉〉として受け取りながら、ある人たちの声は真剣に受け取る価値のない〈ノイズ〉として聞き流してしまいます。それは決して理性的な判断ではなく、私たちにとって実際にそう聞こえてしまうという、至って感性的な次元で行われている選別です。そうであるからして、それはしばしば非合理的な判断です。例をあげましょう。私たちはニュースなどでパレスチナの人々の苦悶をひっきりなしに目にしています。どうしてこのようなことが許されるのか、とそれを〈言葉〉として受け取ることができる人ならば誰しも思うでしょう。しかし、にもかかわらず今日にいたるまで私たちがこのようなことを考えなければいけなくなっているということは、明らかにそれを〈ノイズ〉としてしか聞いていない人々や国家が存在することを証明しています。これこそが「政治」の作用です。
 付言すれば、ランシエールのこういった議論は「政治とは〈人間〉と〈非人間〉の分割である」とも言い換えられるでしょう。「言葉を持った動物」と人間を定義するアリストテレス以来の伝統(それは私たちの生きる現代日本にも浸透しています)に照らし合わせてみれば、そのことはおのずと明らかです。
 さて、ランシエールの議論に則したとき、私たちはデモという形式について新たな視座を得ることができます。彼の著作『感性的なもののパルタージュ』から、一節を引いてみます。

異質性は、ある集団が、それが語るべきでないところで語り、それがいるはずのない場所で可視的なものになることによって、いつでも顕現すると私は思っています。例えば、労働者がその仕事場から這い出るとき、あるいはまた、原則として私的な場であるみずからの仕事場を、彼が公の議論の場、集団的表明の場へと変えるとき[…]といった具合です。[…]あらゆる政治的行動に最低限必要な構造は、苦しみに喘ぎ、雑音を発していると見なされている人々が、協同の事柄に共同で提案を発する主体であることを宣言することだと言えるでしょう。

ジャック・ランシエール、梶田裕訳『感性的なもののパルタージュ』(2009)、pp.80~81

 長々とした引用でしたが、ここではどういったことが言われていたでしょうか。私なりに解釈するなら、こういったことになります。「政治的行動」とは、〈言葉〉を持たず〈ノイズ〉ばかりを発しているとされていた主体が、自らの表現によって「言葉/ノイズ」の境界を引き直すことなのです。だからこそ、彼の議論の上では「芸術」と「政治」は緊密に結びついています。私たちが自らを主体として表現すること、それこそがまさに政治的行動なのです。
 デモの話に戻りましょう。なぜデモは、あれほどにうるさく騒がしくなければいけないのでしょうか。いささか逆説的になりますが、その答えは「彼らが声をあげても「うるさい/騒がしい」としか見なされない主体だから」です。「声なきものたち」の声は、〈言葉〉ではなく単なる声、あるいは〈ノイズ〉としかみなされません。だからこそ彼らは声をあげるのだし、声をあげなければならないのです。彼らの声が、単なる声ではなく〈言葉〉として聞き取られるその可能性に賭けるために。そして感性的に引かれた「言葉/ノイズ」の分割線を引き直すためには、やはり感性に訴えかけるしかないのです。これが、デモがデモというかたちをとらなければいけない理由だと私は考えます。そしてこの点において、私はデモという形式を擁護します。
 
 最後に、昨日のデモに寝過ごして参加できなかった人間の立場から、デモに対してどう応答すべきかについても、私見を述べさせていただきます。重要なのは、それを〈ノイズ〉ではなく〈言葉〉として受け取ること、そしてランシエールが言うように、〈言葉〉を交わすことのできる空間をこのキャンパスに作り出すこと、これをおいて他にないでしょう。この会がそういった場所になることを心より願っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?