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正午を回ったくらいに目を覚まし、M-1の準決勝進出者発表を見たりなどしているといつの間にか夕方になっていて、傾きつつある陽に焦燥感を煽られるようにして家を飛び出した。行先もないまま自転車で国道沿いを進んでいると服部緑地という大きな公園に辿り着いた。祝日の園内は多くの行楽客でにぎわっており、芝生にはテントを張ってキャンプに興じる家族連れの姿などがあった。夕暮れ時の薄明の中で幸せそうな表情を浮かべた人々に紛れていると自我の膜が溶けていくようでわけもなく幸せに感じたことを覚えているが、あまり長居はせず落日とともに帰路に就いた。興奮が収まってしまえば再び募ってくるであろう陰鬱な自意識を怖れていたのだと思う。

帰宅とともに就寝し、次に起きたのは夜11時頃だった。自炊の準備もなかったので仕方なく家を出て、駅前のチェーン店で夕食を食べた。清潔な光に照らされた閑散とした店内で箸を進めていると侘しさが募ってきて、このまま家に帰ったら本当に無駄な一日になってしまう気がして、駅前の公園に立ち寄ってコンビニで買った酒を飲んだ。でも多分これは間違いだった、本当にそれで気分が晴れたなら今こうして日記を書いてなどいないだろう。

誰かと一緒にやりたいこととか、誰かと一緒に行きたい場所などが、本当に何も思い浮かばなくなってしまった。こうなってくると家に一人でいようが外に出ようがまったく同じことだ。

『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』を少しづつ読んでいる。ここでデリダが問題としているのは、私たちが動物たちを見る以前に動物は私たちのことを見ており、従って動物たちは人間に先行するということを、西洋哲学の全体が見落としていることである。これが正確に何を意味しているのかまだつかみ切れていないが、しかし動物たちの先行という主張そのものについて、私ははっきりと首肯できる。私がこの本を読み進めるごとに思い浮かべるのは、実家で飼っていたあの雄猫───横たわる私の上に彼が前触れもなく自分の身体を投げ出してくるその驚くべき贈与の局面、その毛並みの良い身体の温かさであり、これはこの本の読み方として誰よりも正しいと私は確信している。


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