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大阪中之島美術館「テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ」を見てきた。できれば個々の作品を取り上げながら文章を書ければよかったのだが、金がないために目録も買えず、記憶を頼りに筆を走らせるほかにないためにそのことは叶わない。そうであるからして以下の文章は、作品を見ながら私が考えたことの単なるメモでしかない。
展覧会のテーマは「光」だった。ところで「光」とは単なる客体物ではなく、むしろあらゆる視覚的認識を可能にするものだ。そうである以上、それが何らかの主題となりうるのかについてまず考えておくのもよいだろう。「この作品は光を描いている」と言うことは、私たちの生きるこの世界を網膜の奥に取り結ばれる光の像の総体に還元することにどこか似ている。
「光」とは媒質である。それが何かを照らし出しているときにのみ──例えば床に投影された窓からの日差しを描いたハマスホイの絵画のように──光は認識の対象となる。だが同時に、その照らし出される「何か」は、光から切り離されて存在するわけではない(「存在するとは知覚されることである」)。つまり、万物は光というかたちで自らを表現するのだ。そのことはちょうど、湯が沸騰することで自らの存在と不可分な形で熱を伝達するのと等しい。
そして同じことは、おそらく表現の場面に状況を移し替えても言えるだろう。画家は既に存在している対象を絵具によって描くのではなく、絵具というかたちでそれらが語り出すのを待っているのだ。
「〈媒質〉としての光」という考えがもたらすこの認識上の転換は、遠近法からの脱却という形で美術史に表れていたように思う。それは近眼的なパースペクティヴではウィリアム・ターナーの作風の変遷に見出され、またより大きな視座では啓蒙主義~ロマン主義から印象派への転換に表れているように見えた。展覧会の最中、私は──少し文脈は異なるが──メルロ=ポンティがセザンヌについて書いていたことを思い起こしていた。ちょうど手元にあったので引用してみる。
「生きられた遠近法」、そして生きられた世界を描くためには、幾何学的延長としての外界の実在を前提としてはならない。世界は特権的かつ超越的な一点からの「視線」によって光が投射される対象ではありえない。むしろそれは私たちに殺到する多種多様な光であり、直線によって輪郭づけられない相互浸透だ。展覧会の終盤、マーク・ロスコ(私は永らくこの画家のどこがよいのか全く理解できずにいた)の絵画の前に立ったとき、奥行きのなく曖昧な色彩のこの作品において視点は完全に消滅せざるを得ず、鑑賞者はただ色彩の受容器となるほかにないことに気づいた。
ただし今回の展示でもっとも足を引き留められたのは、やはりリヒターの作品だった(上図)。それは前提知識として、この作家が一貫して「表象不可能性」をめぐる問題に取り組み続けていることを知っていたせいもあるだろう。
「光」を主題とするとき、表象不可能性の問題は喫緊のものとして立ち上がってくる。なぜなら、前述したように私たちの視覚的認識の可能性を担っているのが「光」である以上、「光」を主題に据えるとき表象不可能なものが存在しうる可能性は捨象されてしまうように思えるからだ。そのために、光の集積のような抽象絵画を描くリヒターが、《ビルケナウ》などでアウシュヴィッツ表象の問題に取り組み続けている事実は、私にとって以前から興味深く思えていたのであった。
リヒターが「存在するとは知覚されることである」というテーゼに抗い続ける作家であることは、彼の作品を前にして納得させられた。《アブストラクト・ペインティング》は速度を描いた絵画だ。画面上に固定された光は、それにもかかわらず極度の運動性を帯びているように感じられる。そしてこの激しい運動のふとした瞬間に、光の集積としての知覚世界の背後にあるものが漏出してくる可能性──それに彼は賭けているようだった。
展覧会の最後に用意されたオラファー・エリアソン 《星くずの素粒子》も、同様な観点から興味深いものだった。半透明のガラスによってくみ上げられたこの彫刻は、回転しつつスポットライトの光を周囲に反射し続ける。その明滅は瞬間的なものであり、投影された光は一度として同じ像を取り結ぶことがない。それは刹那的であるが故の真実を物語っているようだった──こう言ってよければ、それはあの「新しい天使」にもどこか似ているように見えた。
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