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首里城が客家のモニュメントである証拠
初めに
生活の中で「オヤッ?」と感じたことを深堀しています。
今回も前回に引き続き、首里城に関する記事です。
前回までの記事では首里城正殿が、琉球と中国を結ぶ「海上の道」を正確に指し示していることを示し、そのことが公にされていないのは、「首里城が客家のモニュメント」であることを隠ぺいするためではないか、という私の考えを示しました。
まだ読んでいない方は、こちらを先にお読みください。
少し飛躍しているとも思える私の考えですが、今回は私がこの仮説を正しいと確信するに至った理由の一つを、説明していきたいと思います。
第一尚氏より前の時代の琉球史は、現存する史料が極端に少ないこともあり、研究者によってさまざまな説が挙げられるなど混沌としており、「謎」とされているエピソードも幾つかあります。
そのようなエピソードに私の仮説を適用して再考すると、謎が氷解していくならば、仮説の信ぴょう性はかなり高いと考えて良いのではないでしょうか?
つまり、琉球史の謎解きをしながら、私の説の信ぴょう性を検証しようというわけです。
あまり難しく考えずに、推理小説を読むように楽しんでいただけると幸いです。
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謎の事件「志魯・布里の乱」
今回取り上げる「謎」は、第一尚氏時代の後半に起こった「志魯・布里の乱」という事件です。
第一尚氏の第5代王、尚金福の死後、王の子「志魯」と王の弟「布里」が王位をめぐって争いました。
この乱により首里城は焼失し、志魯、布里ともに死亡したとされています。
乱の後、金福と布里の弟にあたる尚泰久が王位を継ぎました。
なお、布里は王府を追われその後も生存していたという説もあります。
系図で示すとこうなります。
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つまり簡単に言えば、王位をめぐる尚家内の「お家騒動」です。
しかし、首里城を炎上させるほどの大乱になったことや、双方ともに王位を継ぐことができなかったこと、などが謎だとされています。
そしてもう一つ、たいへん不思議なことに、これだけの騒動であったにもかかわらず、同時代の琉球の文献には一切の記録が残されていないのです。
唯一の記録は、中国の文献「明実録」で、この乱で志魯と布里がともに死亡したことや、城が炎上して明から賜っていた銀印が溶けて失われ、その後即位した尚泰久が新たな銀印を求めたことが記されています。
この乱が琉球の歴史書に初めて登場するのは270年も後、1726年に第二尚氏王統の三司官(宰相)で久米三十六姓出身の蔡温(さいおん)によって加筆された「中山世譜」です。
これは蔡温が中国(清)に滞在していた時に、明実録を見て知った事実を書いたと考えられています。
さて、皆さんはどう思われますでしょうか?
城が炎上する事態というのは、少なくとも軍隊と呼べる程度の二つの敵対する勢力が、城をめぐって激しい攻防戦を行ったと考えるのが普通だと思います。
この時期は第一尚氏が全島を統一したと言っても、完全な中央集権を築いていたわけではなく、地方に散在する有力な按司(豪族)達を束ねていたに過ぎません。
そのような時に身内で激しい抗争を行えば、統率力の低下を招き王国を維持することが危うくなりかねません。
単なるお家騒動で、このような激しい戦乱を招いたというのは、全くあり得ないとまでは言いませんが、私にはかなり違和感があります。
そして記録が残されていないことについて、明に報告したということは、それに先立って王府内で記録が作成されていたことは間違いありません。
それが残されていないということは、後に誰かが記録を消し去ったと考えるべきでしょう。
記録を消した者にとって、後世に知られては都合が悪い何らかの事実が、そこに書かれてあったのではないでしょうか。
少なくとも、その可能性がかなり高いと思います。
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お家騒動ではありえない、動かぬ証拠
では、謎を解いていきましょう。
まずはこの図をご覧ください。
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沖縄県立埋蔵文化財センター 2016 『沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書82:首里城跡』沖縄県立埋蔵文化財センター より作成
これは既に、前々回の私の記事で紹介している、昭和60~61年度に沖縄県教育庁文化課が実施した、首里城跡正殿の発掘調査で確認された、「基壇」などの主要な構造物の変遷を示した図です。
よく見ると、正殿とみられる場所に、青と黄色の2種類の格子が描かれています。
そして2種類の格子は、少し角度が異なっています。
青色の格子は同じく青色で示されたⅡ期基壇と並行であり、この時期の正殿の位置を示しています。
同様に黄色の格子はⅢ期基壇の時期の正殿の位置です。
改めて説明しますが、基壇とは正殿建物の土台となる石積みで、首里城は正殿の正面の壁が基壇と平行になるように造られています。
つまり、基壇の向きを見れば、その時代の正殿が向いていた方向を知ることができるのです。
基壇は全部で7期分確認されているのですが、Ⅰ期基壇はごく一部しか確認されていないため、全貌を確認できるのはⅡ期~Ⅶ期の6期分です。
注目していただきたいのは、Ⅲ期を除く5期分の基壇が、寸分違わぬ精度で互いに平行なのに対し、黄色で示されたⅢ期基壇だけ他よりも少し北側に向いていることです。
(図の赤い点線は私が書き加えたもので、他の基壇と平行になっています。)
つまり、首里城が創建されてから、約600年の歴史の中で、このⅢ期基壇の時期だけ正殿は現在とは違う向きになっていたのです。
そして、このⅢ期基壇は、志魯・布里の乱の直後に造られたものです。
なぜなら、その直前まで使われていたⅡ期基壇には、表面が赤く変色し大きな火災に遭遇した痕跡が残されていたからです。
つまり、城が炎上したという明実録の記録と一致しているのです。
このことから、以下のことが容易に読み取れます。
Ⅲ期以外の基壇を造った勢力は、正殿の方向に強いこだわりを持っていたこと。
Ⅲ期基壇を造ったのは、志魯・布里の乱の勝者であり、正殿の方向にこだわりがないこと。
初めの記事から読まれてきた方なら、もうお分かりですね。
この事実を理解し、矛盾なく説明するためには、私の仮説を適用して考えれば良いのです。
すなわち、
Ⅲ期以外の基壇はすべて「客家」が造ったものである。
Ⅲ期基壇は客家以外の勢力、おそらく「第一尚氏」が造ったものである。
となります。
つまり、「志魯・布里の乱」と呼ばれる事件によって、一時的に王府から客家の勢力が取り除かれたと考えられるのです。
したがって、この乱は「客家」対「第一尚氏」の抗争であった、ということになります。
この発掘調査の報告書には、こう書かれてあります。
Ⅲ期基壇に付属している石階段の表面がほとんど磨り減っていないため、この基壇の使用期間が短かった可能性がある。
つまり、第一尚氏が掌握していた期間は短かったということになるのですが、これは志魯・布里の乱の16年後に、第一尚氏が消滅した史実と一致します。
紙で作られた歴史書は、事実を隠蔽したり歪曲することができますが、遺跡の中に刻まれた事実は決して動かすことはできません。
文字通り「動かぬ証拠」という訳です。
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姿を消したもう一人の人物
この乱について、極めて重要なことなのに、なぜか文献等ではほとんど言及されていない、もう一つの事実があります。
この乱を境にして、歴史の表舞台から忽然と姿を消したある人物のことです。
その人こそ、謎の中国人「懐機」です。
そうです。
記録を消し去った者たちが、知られてはいけないと考えた事実とは、まさにこのことでしょう。
つまりこういうことです。
志魯・布里の乱は、一般的に考えられているような第一尚氏内部のお家騒動ではなく、客家人である懐機が首謀したクーデターである。
そして、クーデターは失敗に終わり、懐機は死亡または失脚した。
後に別のクーデターによって第一尚氏を滅ぼした、客家人を中心とした勢力である第二尚氏は、懐機と乱との関連を隠すために、残されていた史料をことごとく抹消した。
このように考えると、全てが矛盾なく説明できるのです。
いかがでしょうか。
前回の投稿で私は、首里城は客家のモニュメンントであるという、大それた仮説を掲げました。
もし、仮説が間違っているならば、それに則って考えていくと、複数の事実の整合性がとれず、矛盾だらけになるはずです。
しかし実際の史料にこの仮説を当てはめて考えていくと、矛盾が生じないばかりか、謎とされていた歴史の綾が、スルスルと解けていくのです。
これは、この仮説が正しいということを示しているのではないでしょうか。
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懐機とは何者なのか
最後に「懐機」とは何者なのかについて、現時点で私が考えていることを記しておきましょう。
彼はおそらく、明の皇帝からある使命を託されて、琉球に遣わされたスパイです。
その使命とは、琉球を統一し、建国された琉球王国を丸ごと乗っ取ることです。
懐機は優れた技術や教養を備えた人物でしたが、任務を遂行する上で欠けているものが一つありました。
それは琉球を統一するための戦力です。
だから、第一尚氏時代の初期は、尚巴志らに協力し三山の統一を成し遂げたのです。
琉球は日本や他のアジア諸国と同様に、明の冊封国(従属する国)の一つですが、他の冊封国とは違って格別の優遇を受けています。
普通の冊封国は3年に1回の進貢が認められているだけですが、琉球は何時でも自由に進貢することができましたし、通常は特定の港しか使用できないところを、いくつかの港を自由に使うことができました。
その上、進貢に使う大型船や航海士も明から支給されていましたし、船の修理も明が行ってくれました。
つまり、明と琉球は単なる従属関係ではなく、直轄地、すなわち明の一部として併合された領土の扱いに近かったと考えられます。
このような扱いを受けられたのは、琉球の中に明の上層部と深く通じた者がいたと考えられるのですが、その人物は言うまでもなく懐機しか考えられません。
明からは献上品以上の価値がある返礼品を受けられましたので、第三国と交易することにより琉球は莫大な富を得ることができ、これは第一尚氏の繁栄に繋がり、琉球統一の財政的な基盤となりました。
第一尚氏へ便宜を図り繁栄と成功をもたらした一方で、懐機は彼らを弱体化させることができる周到な落とし穴を用意していました。
それは、交易にかかわる重要なポストを、客家や久米三十六姓を中心とした人脈が独占するということです。
第一尚氏はいつの間にか外交という国政の重要な部分を、部外者である懐機らに依存せざるを得ない体質に慣らされていたわけです。
実に狡猾な作戦です。
懐機は首里城とその周囲の庭園を整備したのですが、これは第一尚氏への忠誠心からではなく、いずれ琉球王国を乗っ取り自分たちの居城として使用するためです。
その意思こそ、正殿の方向角261°の意味です。
結局、懐機のクーデターは失敗に終わり、使命を達成することができなかったのですが、その16年後に彼の意を継ぐ者たちによって達成されます。
これについては、また別の機会にお話できればと思います。
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最後に
今回のなぞ解き、いかがだったでしょうか?
実をいうと、私がこの謎を解くことができたのは、世界史や日本史の主だった謎を、ことごとく解いてこられた先人がいたからです。
私は、その方の手法を琉球史に当てはめたに過ぎません。
その方こそ、前回紹介した教会を運営しておられる方、「RAPT」さんです。
私たちが学校で学んできた歴史は、ある種の人たちによって歪められてしまっています。
本当はとてもシンプルで分かりやすいことなのに、肝心な部分が隠され歪められているから、とても難解で複雑なように見えるのです。
学生時代、私は「歴史」という教科が嫌いでした。
今考えてみると、おおよそ年表を覚えるだけのつまらない作業に終始してしまっていたのは、このように歴史が歪められてきた結果だったわけです。
さて、「戦国時代」とか「戦時」と呼ばれる時代に、多くの国々が戦火を交え、多くの人命が失われてきたのはなぜでしょうか?
本当は誰も、殺し合いなどしたくないと思っているはずなのに、野蛮な殺戮行為が繰り返されてきましたし、現在も行われています。
それがなぜなのか、歴史の授業では教えてくれませんよね。
でも、RAPT氏が解いた歴史観では、明確な答えにたどり着きます。
幾つかのグループに属するこの世の支配者たちが、自分たちの富や権力を守るために、大衆を扇動して戦乱を引き起こしてきたのです。
「愛する人を守るため」とか「国や秩序を守るため」という耳障りの良い言葉は、彼らのプロパガンダに過ぎません。
しかし、それ以上に重要な原因があることが、RAPT氏によって明らかにされています。
それは、人知を超えたある「力」のことであり、それに関して書かれてある書物こそ「聖書」なのです。
原因がわかってしまえば、対抗することができます。
私たちは「光の力」つまり、神様を愛し寄り頼むことにより、「闇の力」に勝利することができるのです。
「RAPTブログ」には、そのことがどこまでも詳しく、具体的に書かれてあるのです。
神様の言葉を受け入れない人たち、とりわけ多くの日本人に、ハッキリと申し上げます。
貴方は子供の時から、「無神論」というカルトに洗脳されています。
つまり、日本人が神様の存在に気づかないように、そのように仕向けてきた者たちがいるのです。
どうか気づいてください。
知って生きるか、知らないで生きるかで、貴方の人生が全く違ったものになります。
多くの人たちが、神様に出会えますように。
貴方に祝福がありますように。