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SNSについて思うこと。

家の人に聞こえるのが嫌で電話のコードを引っ張って部屋で電話する。あるいは。人通りの少ない、大通りから離れた公衆電話で電話をかける。生徒手帳のカバーの内側には、色褪せたプリクラとともに、きっと今でも残金僅かなテレフォンカードが入っているはずだ。テレフォンカード。次第に高さを失う10円玉のタワー。電話ボックス。全ての単語が懐かしい。

携帯電話が普及していなかった頃、いや、正しく言えば携帯電話を持っていなかった頃、待ち合わせは賭けだった。家を出てからの「今日は部活休むから一緒に行けない」「ごめん、寝坊したから待ち合わせやっぱり13時で」そんな連絡ができないから入った亀裂。苛立ち。不信感。からの、別れ。

携帯電話が普及して、黄緑や青、水色を始めとしたありとあらゆる色のアプリで繋がった現代人は知りたくないことまで知ることができるようになった。

昼間はパンケーキと自撮り。一向につかない既読を片手に、それでも自分の知らない子に飛ばされてるリプを呆然と眺める深夜1:34。永遠にスクロールできるかと思われたタイムラインも、夜が深まれば親指を下げてもビクともしない。更新されれば苛つくし、更新されなければ孤独を覚える。気になる人と知らない人とのツーショットと共に、楽しかった、ありがとう、だいすき… 本人に直接言えば済むようなキャプションもupされるかもしれない。どちらにしろ、知りたくないことを知りすぎた。

今までだって人の過去を知ってろくなことはなかった。目の前に居る人の今が全てだ。自分が知らない過去のこと、気にならないこともないし、何ならすごく気になるけど、それでも好きなのは「今」だからって言って知らずにいて、それでも気になるけど、その嘘がそのうち本物になって、聞かないことが受け止めることになる。そんな関係っていい。WiFiやタグ付けやハッシュタグで繋がっていても肝心なところで繋がれない。

携帯電話があったなら上手くいっていたであろう恋は携帯電話が普及してなかったから上手くいかなかった。でもそれは電話が普及してなかった時代において仕方のなかったこと。

と考えるなら

SNSがなかったら上手くいっていたであろう恋はSNSがあったから上手くいかなかった。でもそれはSNSがある時代において仕方のないこと。

ただし、携帯電話とは異なり、幸にも不幸にもSNSをしないという選択肢が存在する。その選択肢が存在する以上、自分にとってSNSが必要なのかを選択しなければならない。そして、その、何が必要なのか何を得るかを知ることは、別にSNSだけではなくて目の前にある生身の人間でも言えることだった。

そしてその選択の延長線上に、その人の人となりを嫌という程露呈してしまう、道具とも、凶器とも、鏡とも言えるような「それ」を大事にしていきたいとも思ってる。

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