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さざなみ書評『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』

 プレクトラム結社の広報部長によるツイートは職人芸の域に達している。副業先の楽器メーカーで培った確かな科学知識と、「その場の思いつきでは?」という軽いノリで導出される結論のこじつけに妙味がある。そんな突拍子もないジョークが支持されるのは、広報全般を管轄し、年次の総会でも自ら演奏するなどして厚い信頼を築いていることも無関係ではないだろう。

 しかし私はというと、東海随一の企業たるプレクトラム結社を半年で辞めた身。専属ライターとして何か書くうえで、この問題からは逃れられない。「もっと日常にアゴーギグを」とブレブレの人間が書いたところで説得力はなく、読んだ瞬間「アイツみたいになりたくない」といって全人類がタイトな拍感を求めてしまうまである。

 ここで私が「それは詭弁だ」と主張したらどうだろう? つまり、「私の人間性は関係ない。紹介する本と、紹介の仕方に価値があるのだから、私の記事を認めてくれ」と。考えるまでもない。常識のない、ますます信頼のおけない書き手だと思われるだろう。それはさながら、自作曲について理論武装して講釈を垂れ流した末に「こんなにすばらしい曲なんだから認めてくれ」と駄々をこねる作曲家のようで、哀れだ。

 これを研究者にいわせると、語り手の性格に依存する言論は論理学的には詭弁だが、レトリックとしては正当化される ということになるだろう。結社をやめた私の書くことを信じてもらうには、私の信頼度を高めるしか方法はないのだ。今回紹介する『論より詭弁』では、そんな当たり前すぎることがアカデミックに書かれていて面白い。

論より詭弁

 『論より詭弁』は、論理学で「詭弁」とみなされてきた言説を材料にして「論理的思考」を相対化する本である。ひらたく言えば、「論理は役立つときもあるけど、絶対ではないよね」「もっと視野を広げて、相手を説得するための話し方(=レトリック)の重要性を見直そう」といったことが書かれている。

 著者によれば、話し手と聞き手の力関係に差がある以上、論理学的な正しさだけでは相手を説得できない。弱者に残された情状酌量を請うための最終手段、それが論理であるとさえ言ってのける。論理的思考~論証は、あくまで武器のひとつであり、その使い方を考えるための上位概念=レトリックのほうが重要だ。それならば、論理的に正しくない言説=詭弁を厭わずに生きていこうではないか! というのが論旨である。

 著者によれば、言論による説得には次の三種類がある。

①語り手の性格に依存
②聞き手の心を動かす
③論証に依存

 私の書くことなど信じないという批判は①に、私がそれを詭弁だと主張するのは③に当てはまるだろう。

 で、ここでの私のように、あくまでサブウェポンにすぎない ③ を絶対視するあまり、ちょっと引っかかることがあるとすぐに「ロジカルじゃない」と揚げ足をとる残念な人・・・もとい、修辞が論理に支配されてしまった人が世の中には溢れている。こういう就活生をけっこう見かけるので、プレクトラム結社リクルート担当もさぞ苦労しているだろう。「論理的思考を相対化」とはつまり、そういう人をバッサバッサとなぎ倒していくことでもある。著者によるその書きぶり自体おもしろいのだが、日常で使える論戦回避テクニックがなかなか良いのでちょっと見てほしい。

 例えば、「ボッタキアーリがのこした曲はとても音楽的だ」と誰かが主張したとしよう。すると、「音楽的の定義は?」とか言い出す俺みたいなクソ野郎が必ずいる。そういうときは「あなたが考える "音楽的" と同じでいいよ」と言ってやればいい。ソイツの定義に問題があれば、定義の説明責任がソイツに移り、そのうちうやむやになって、その場は丸く収まるだろう。論証に労力を割かずに事なきを得やすくなる。

 もちろん、場は選ぼう。飲みの席ならこれでOKだが、選曲会議で「ボッタキアーリは音楽的だからやらねばならぬ」とか言い出す俺みたいなクソ野郎がいたら、民主主義の名の下でそいつを糾弾しなければならない。もっとも、彼がメンバーを納得させられるだけの人物であれば話は別だが、いずれにせよ空気を読むことは必要だ。広報部長のツイートが根拠のない主張として非難されることなく「愛される詭弁」として受容されるのは、ジョークがジョークとわかる環境を構築する暗黙の手続きを踏んでいるからなのだ。東海随一の企業というわりには影響力が小さいから、では、断じてないのだ。

 処世術としての教えは1つ。「論証は極力回避せよ」これに尽きる。説明する側にまわれば、絶対どこかでほころびがでる。相手に説明させろ。本書にはそういうことが書いてある。論理は神ではないことを著者は知っているからだ。

 論理にとらわれすぎないことは、指揮者やセクションリーダーにとっても必要な資質だろう。音楽理論は効果的であるかぎり使えばいいが、必要以上にとらわれる必要はない。「海のような厚い音を」とかいってリオの海風を振ってた俺ってただの詐欺師なのでは・・・と悲しむことはない。みんなで音楽やるなら、楽曲の理想形を見出し、信念貫こうとするやつが、一人は必要なのだ。

 ・・・と、言うは易しで、私は指揮者を全然うまくやれなかった。急にしょんぼりしてしまうが、要は人間力と音楽力である。「レトリック」などとセコセコ考えずに済むならそれに越したことはない。すべての奏者を呼吸で従え、「もっと幻想的に」という一言だけで、ほんとうに幻想的な音を引き出してしまう指揮者を私は知っている。本物の指揮者は、その存在によって音楽を語ってしまうのだ。あれは夢だったんじゃないかと思わせるほどに。

 それでも何か主張したいなら。人間力が薄いと感じるなら。学んで補うしかない。『論より詭弁』には、「不確かなことを断言してしまってよい」ことの理由が書かれている。ここは本書の評者としてそれに乗っかり、詭弁的楽曲論評を垂れてお別れするとしましょう。

 嘘と誠、労働と生命、人類の根源的な情感が何層にも織り連なった機関としてのマンドリン音楽。統制されたミニマルミュージックの演奏は、ちょっと語り草になりました。繰り返される不条理の中にかろうじて見出せる歌心は彼らのブルース。日々漸進し、やがて狂乱のステージへ。束の間の快楽を追い求め、あまりに禁欲的な道をゆく。そうするしかない哀しみを、その先にある喜びを信じて励む勤勉な姿を描いたこの曲は、プレクトラム業界のプロレタリアート讃歌。水墨画のモノクロームで描け、美しきレインボウ。それではお聴きください。プレクトラム結社の「虹色機関Ⅰ」。

 作曲者の意図などガン無視で書いてみましたが、なかなかそれっぽいでしょう? そんなもんです。そのことを教えてくれるのが『論より詭弁』という本です。言葉にがんじがらめにされてしまいがちな、繊細な人にこそオススメしたい一冊。いつもよりちょっと大胆になるコツと勇気をもらえるかもしれません。

 さて、次回はもっとさわやかに『休日に奏でるプレクトラム』を紹介予定だ。さざなみ書評の切り札を早々に召喚しちゃいます。来週は詭弁ナシでいくぜ!休日に奏でる!プレクトラ~ム!

(文責:モラトリくん)

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