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降誕祭の夜にジロリズムを寄せて

※以下に示された見解はわたし個人のものであり、所属する企業を代表するものではありません。

~***~
「クリスマス」ってよォ・・・・・
英語では「Christmas」っていうんだが
みんなは英語どおり「クリスマス」って発音して呼ぶ
 でも「マンドリン」ではみんな「降誕祭」って日本語で呼ぶんだよォ~~~ 「降誕祭の夜」とかよォ───
 なんで「クリスマスイブ」ってタイトルじゃあ
 ねえーんだよォオオォオオオ─────ッ
 それって納得いくかァ~~~おい?
 オレはぜ──んぜん納得いかねえ・・・・・
 ~***~

 中野二郎氏の一連の業績、そしてそれらが醸成する一種のモードを「ジロリズム」と呼んでみてはどうかとクリスマスの頃から考えている。

 ジロリズムは「ギターマンドリン音楽とは何か」という問いに対する最も有力な答えである。「マンドリンオリジナル」と呼ばれる作品群があるが、この中にイタリアで活動した作曲家の作品だけでなく、それらの作曲家が残した作品を中野二郎氏が編曲したものも含まれるのか、筆者の周囲で話題になったことがあるうえ、同志社大学図書館内 中野譜庫に所蔵された膨大な楽譜のコレクションとその研究に裏打ちされた作編曲群が、なによりもジロリズムの重要性を物語っている。それほどまでに、ジロリズムにはブレがない。ギターマンドリン音楽における一つのデファクトスタンダードと言ってよいだろう。
 ジロリズムはギターマンドリン音楽の中で比較的広く受容されたのち、中野二郎氏の薫陶を受けた演奏家による継承の結果として「ネオジロリズム」とも呼べる潮流へと発展した。ネオジロリズムの音楽家は、その祖先たるジロリズムが残したギターマンドリン音楽の可能性の拡張を一手に担いつづけている。つまり、「ギターマンドリン音楽とは何か」という問いは現在でも生き続けているのだ。
  しかし、昨年からコロナ禍のもと、多くの楽団活動を休止するか、活動方法を大幅に変更することを余儀なくされている。弊社も例外ではない。合奏と演奏会の開催というギターマンドリン音楽の中心を占めていた2大スキームが制限された現在において。私たちはいわば「ポストジロリズム」の時代に放り込まれたと言って良いだろう。ではポストジロリズムにおいて、私たちはギターマンドリン音楽にどの様に向き合うことができるか?卑近な例から考えてみたい。

 社会人団体/学生団体の別を問わず演奏プログラムを策定するにあたり、しばしばポピュラーステージをどうするかという問題に直面する。これは悩ましい問題である。なぜならポピュラーとはどういうことか、という論点から「(ポピュラーではない)ギターマンドリン音楽とは何か」という根源的な問題に改めて立ち返らなければならないからである。要するに、ポピュラーとは何かを考えるにあたっては、ジロリズム以上の答えが求められるのである。
  ところで、近年マンドリンはメディアへの露出機会も増え、マンドリンという楽器の知名度はかつてないほど高まっているといってよい。それならばここで、次のように考えてみよう。

 「マンドリンはポピュラーである。したがって、マンドリンで演奏した音楽はポピュラーである」

 むろんこれは暴論である。というより暴言であり一種の開き直りである。
 しかしながら、今となってはポピュラーなギターマンドリンで「ポピュラー音楽という何か」を演奏するのであるから、「(ポピュラーではない)ギターマンドリンとは何か」という従来の問いはもはや有効ではない。
  そこで「ギターマンドリンをどう使うか」という問いに転換しよう。
 この問に対する解の導出に成功した代表的人物は、おそらく古賀政男である(※1)。ギターマンドリンがあれほど日本人の琴線に響く哀愁を帯びた表現を効果的に実現すると示したことは、後の歌謡曲に対する影響とあわせて大きな業績である。

「マンドリンをやっています」「古賀メロディーですね」

このようなやりとりが成立した時代があったのである。それほど、「古賀メロディー」という解は強力であったし、「ギターマンドリンをどう使うか」という問いもまた有効だった。私たちはギターマンドリン音楽の可能性を信じて良いのである。

 「ギターマンドリンとは何か」この問はジロリズムからネオジロリズムへ正当に継承された。ここで「ギターマンドリンをどう使うか」という、ジロリズムから派生したべつの問いは、「ポストジロリズム」という新たな系譜の端緒の一つとならないだろうか。(※2)
 なお、「ポストジロリズム」は「ジロリズム」に対して超克する、または相反するものではないことに注意されたい。ギターマンドリン音楽の楽しみ方における、別の一つのモードを提供するものであると筆者は考える。ジロリズムにおいて愛された作品が、ポストジロリズムの文脈の中で演奏され、新しい側面が見いだされることもあるだろうし、その逆もまた然りである。(※3)

ポストジロリズムの行く先は誰にもわからない。ただ、どんな状況においてもギターマンドリン音楽にはもっと多様な楽しみ方や楽しむ場所がある、と信じている。

いつか「降誕祭の夜」が街場に溢れる日を。

文責 タピ岡越前守



(※1)もう一人、あげるとするならば鈴木静一氏と筆者は考える。血沸き肉躍る時代劇風の作風がクローズアップされていることが多いが、それを効果的に実現しているオーケストレーションの巧みさはまさに「ギターマンドリンをどう使うか」という解であって、それを誰もが鈴木静一作品とわかるスタイルまで高めていることが氏の凄みではないだろうか。

(※2) ポストジロリズムの問いは「ギターマンドリンをどう使うか」に限ったことではない、近年多くの楽団が新規結成していることもポストジロリズム的な現象と捉えて良いかもしれない。

(※3) ポストジロリズムはギターマンドリン音楽における福音となりうるだろうか?残念ながら筆者はそのようには考えない。ポストジロリズムは潜在的に自壊する危険を内包しているからである。かつて、読売アンデパンダン展が無制限な実験による混沌の果てに破綻をむかえたように、ポストジロリズムもいたずらな様式の解体と、文脈の喪失につながる可能性をはらんでいる。ゆえに、ポストジロリズムの道を進むならば、「クリスマスイブ」が「降誕祭の夜」と名付けられたことを忘れてはならない。先人の業績を参照しながら、自分たちの試みを定置したその先に、ギターマンドリン音楽の新しい楽しみ方が、きっと見えてくるだろう。

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