三日坊主克服の記事を書いて三日放置、断捨離と溜め込み障害は同じと知る
私たちはモノを溜め込むことに価値観を覚えやすかったりする。
かつて人類が野山を駆け回っていた頃、何かを手に入れることは自分が生き延びることに直結していたし、何かを溜め込むこともまた、自分が生き延びることに直結していたからだろうと思う。
だがしかし、今は何でも金さえ出せば!手に入る時代となった。そして多くを手に入れることや新しいものを手に入れることが良し、または成功の証とされるようになってしまった。
それでなくても世の中は、これを買え、あれを買え、アレが新しくなったと、常に情報を振りまいている。
そうして溜め込んでいくうちに、今度は捨てることが出来なくなっていく。これに拍車がかかった状態が、『溜め込み障害』というやつだ。この究極が、所謂「ゴミ屋敷」のパターンだという。
◾自分はチガウというワナ
このコロナ生活の始まりの中で、家の中を整理している人の話をちらほら聞く。
整理整頓の本が溢れ、断捨離だと叫ばれ、お片付けアドバイザーがTVに映る毎日。皆様、ご自身のお部屋はいかがでしょうか。季節の挨拶風。
まぁとにかく、このコロナのための閉じこもり生活で、スペースが必要になり必要に迫られて掃除をしたものも多かろう。
そしてその時に、キチンとモノが捨てられただろうか。中には右のものを左へ、むしろ手前のものを奥へ奥へと溜め込んでいった人もいるかもしれない。
自分がいかに溜め込み状態だったか思い知った人もいたのではないだろうか。
おそらく一番気づくのは、着れなくなった洋服とか。鍋がやたらと多い人とか。読んでしまった本や漫画を延々に残しておくとか。自分のものだけでなく、子供のモノを取っておくとか。
アタシか。
私は十年の結婚生活の後に予期せぬ離婚をした。その時に半ばヤケクソ、そして生活を一新するためにモノを捨てまくったことがある。だからモノはそれなりに少ない…ハズ。
しかしハズなだけでてんこ盛りなのを知っている。
私はまだまだそのレベルではない。と、自分で言い切ってしまう人の方が要注意なのは、『色眼鏡』的に考えても言うまでもない。
ポジティブでハッピーなのがヨガのゴールだと思ってたら大間違いなのと同じくらい、自分の色眼鏡でモノを見るのが人間なのである。
◾捨てるという納得
そういうわけで私は溜め込んでいるうちの一人である。だがしかし、それを今、一気に捨てようとも思わない。なぜか。
断捨離や整理整頓の必要性を感じないからだ。
確かにヨガの教えの中には「ヴァイラーギャ:वैराग्य:vairāgya」…いわゆる欲を手放しましょうという離欲という言葉であったり…
「サントーシャ:संतोष:saṃtoṣa」…いわゆる足るを知りましょう、既に持っているものに満足しましょう…的な教えがあったりする。
だがここで言われているのはどちらも、整理整頓でも、断捨離でもない。むしろ大切なのは、納得感や体感なのではないか。
例えモノに囲まれていても、部屋がとっちらかっていようとも、「自分は今、充分満たされている」という感覚を持っているということである。
◾断捨離好きも溜め込み障害も同じモノ
溜め込み障害が起こるきっかけは人によって様々であるという。
特に、身体的な病気やうつ病…ときには認知症などによる体力の大幅な低下によって、自分で部屋を片付けられなくなることが、一瞬でもあることによって始まる場合がある。
一般的には、体力の回復などや家族のサポートと共に、そうした混乱状態は解消されていく。だがそういったことがなく、それが持続してしまうと、溜め込み障害への道を歩み始める。
そしていつしか「溜めることは良いことである」…という、モノを大切にしてるんだ!という心が出来たり、「こうして溜めている方が安心できる」という思い込みが働いていく。
おそらく…この溜め込み障害を嫌うキモチや、家族がだらしが無いのが許せないとか、思う通りに片付けたいという欲求により、断捨離が始まる。
つまり反動だ。
そこにあるのは「整理整頓するのが良いことである」というなんらかの枠組みであったり、「断捨離すると良いことが起こる」という思い込みであったりする。
つまり形は違えど、そこにあるのは互いにどちらも「そうしたいという欲求」であり、「それが良いと感じている」という『色眼鏡』である。
そして「溜めねばならない」「片付けねばならない」という強迫的な思い込みである。
つまり、断捨離推進派も、溜め込み推進派も、自分の内側で起こっているモノは、同じことなのだ。
◾恐るべし強迫的な感覚
noteにいくつか記事を載せ、私はそこで手を止めた。
そして少し放置する。
それは沢山書いた方がたくさんの人に見てもらえる、たくさんの人に読んでもらいたいという「欲求」を少し抑える効果も働く。
そしてそれと同じくらい感じてしまう、たくさんの人に読まれた方がいいに決まっている、という暗黙の『色眼鏡』を外す行為でもある。
長く書き続けるということの中には、「強迫的なモノではない」ということが大切になってくる。誰も自分にプラスでないことは毎日続けられないのだ。
三日坊主は復帰すれば三日坊主ではない。
手を止めてみろ。
ホッとしたなら、そして逆にやらずにいられないのなら、もしかしたら自分の中で「強迫的」になってしまっているのかもしれない。