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ヨガをしてたどり着いた、何でもいいからオノレの豊かさの基準を成立させろということ。

豊かとは何を指してるんだろうか。

ある自己啓発セミナーで「身心共に豊かであれ」と言われたのを良く覚えている。つまり、物質的豊かさと精神的豊かさの、ふたつ。

生きるということには金が必要だ。つまり人生基本的に、金を稼いでナンボである。それたけ豊かな生活をしてから、心の豊かさを求めなさいよと。

まぁ、そもそもその自己啓発セミナーはそのように構成されているし、稼いでいるヤツからでないと、搾取できないのが、この現実世界の構成だ。どこにでも、ネズミ講的社会構造は存在している。

そして私は「ヨガを伝える」という中に、ただスピリチュアルなだけでなく、キチンと現実を見て生きることを伝えるべきだ、と思っている。

■ヨガエキセントリックよ撲滅せよ

あるとき、まだ仕事をしていた友人が、あるヨガの先生(まぁ、ソコソコ有名)に「仕事が苦しい」と打ち明けたところ、その先生はこういった。

『仕事なんてやめて、ヨガで生きればいいじゃない(ハァト)』

馬鹿かと。

幸せそうな御託を並べ立て、哲学のお題目を唱え、自分はヴィーガンで純粋だとのたまうヨガ講師への気持ちが、一瞬にしてガラリと崩れた瞬間だった。

皆、必死で働いた金で、オマエのクラスを受けに来ている。
それをなんと心得る…

それ以来私は、必ず私のクラスに来てくれる人に伝えている。現実見ろと。

やれリトリートだ外ヨガだと、ヨガのお仲間とお山に登ったり、海辺でパチャパチャしてないで、基本まずは自分の人生に取り組みなさいよと。

苦しくとも、ヘド吐きそうでも、目を逸らさずに、自分の人生を見つめることは大切だ。

ヨガを現実世界からの逃避に使ってはならない。

そもそもヨガとは現実世界に存在している「私」というひとつのモノを、眺め、理解し、より良く生きるために利用するものだ。

ヨガほど現実と向き合うツールはないのである。

■現実世界と精神的豊かさの基準

現実世界を眺めると、何かをするには等価交換が必要であり、それに関して今は「金」という存在が介入している。

そして明らかにその「金」を持つものが、さらに自分自身が「豊か」であるために必要なモノ…を、優先的に手に入れることが出来る。

ところが「豊か」という感覚は、「個々」に置いて本当にまったく違っている。

物質的な豊かさに価値観を感じるものは、より多くを手にしようと東奔西走する。

そして精神的な豊かさに価値観を感じるものは、より多くのスピリチュアルな情報や師に出逢おうと東奔西走する。

いやいやいやいや。
そうじゃないだろ!

確かに人生には、より早く移動したり、より多くのモノを手に入れたり、社会的に高い地位を獲得するだけでない「ナニカ」が存在している。

それが精神的な豊かさというモノ。

だがしかし。
本当の意味でそれを感じたり、手にしたいと願うなら、「より多く」という、日頃持ち合わせて身に染み付いてしまっている基準を、一度捨てなくてはならない。

精神的豊かさに必要なのは「深度」である

そして大切なのは、その「豊かさの基準」が、本当に自分の奥底から出てきたものなのか? ということだ。

誰かが言っていたから、雑誌で見たから、自己啓発セミナーで言われたから…

そういう理由ではない、自分の内側、より深いところから振り絞った「豊かさの基準」。そしてそこに求める深度である。

逆に言えば、それがどんなに一見良さそうに思えても…例えば、ヨガの哲学で書いてあるからとか、偉いグルジからそう教わったからとか、なんだか浄化されて純粋になれそうだからとか…

そういう見たり聞いたりしたことではない、自分自身が感じるところ。

シンプルライフもヴィーガニズムも、自然回帰も…

それこそ be yoga で在ることすらも、誰かから又聞きして「やっている」ウチは、それはオノレの基準とは言えない。

己がそう感じ、基準とし、そう生きれるか。

そう生きなければ死んでしまうのではないかというほど望む、その深さだ。
心の底から思える深さだ。

■深度さえあれば何でもあり

例えばそのひとつが私にとって「犬と生きる」。

私の場合、人生金ばかりあっても、犬がいなければ始まらん。

家族や友人、恋人と過ごすこと、欲得抜きで誰かに手を差し伸べること、魂や大いなる存在を意識し、素晴らしい世界と結びつき、ペースを落として人生の貴重な一瞬を味わうこと…

そんなことよりも先に、犬と暮らすことだ。

もはや依存である。
ヨガの先生たちの嫌いな執着である。

だがしかし、犬を嫌いだという家族も友人も恋人も要らないし、犬を粗末に扱うやつは撲滅すれば良いと願うし、犬関係になら欲得抜きで手を差し伸べることができる。

私は犬と暮らすことを通して、かけがえの無い友人を得、魂や大いなる存在と結びくこと、そしてより良く生き、大いに死ぬ、ということを学んだ。

犬の一生は短い。

彼らと共に暮らし人生を歩むには、自分のペースを落として彼らとの貴重な一瞬を味わった方がいい。そうやって魂を感じ、素晴らしい世界と結びつくんだ!

結果的に自分にとって『ヨガ』である。

もちろんヨガを学んでいることは、犬にとっても良い効果を現す。そりゃそうだ。犬は人と一心同体だ。飼い主が「幸せ」でなければ、犬は不幸である。

犬の幸せのためにも、真面目にヨガに取り組んでみるといい。

さてつまり…
私の価値基準の中で、巷のヨガよりもよっぽど、犬と暮らすことがヨガであることに気づいてしまったのだ。

だが同時に、ヨガも必要であることが私にはわかっている。人の心は遷ろい易く、そして人の世界は厳しい。

つまり犬と暮らすことの中にもまた、物質的世界の「より多く」という基準が存在する。そして犬ばかり可愛がり過ぎても「エキセントリックな犬の飼い主」という恐ろしいワナにハマってしまうのだ。

どんなに好きでも、どんなにそこに価値を置いてもアタマまでどっぷり使って、右も左も見えないようになってはならない。ヨガを使って現実を観ろ。

犬を現実世界からの逃避に使ってはならない。

あくまでも身の置き場は、己の認識である。

■豊かさの基準を自分自身で定める

そもそもヨガは現実世界に存在する私という「個」、つまりひとつきりの自分というものを眺め、理解するために利用するものだ。

そうやってヨガで自分を見詰め、シンプルに…

心の豊かさに溢れた人生を送るための、素晴らしいガイドとなるたった1つの「豊かさの基準」を、自分の深い内側から彫り起こす。

それは家族でも、子供でも犬でも猫でも花でも、刺繍でもニットでも、ヴィーガニズムでも、ヨガでも海でもお山でも、結局のところ何でもいい。

その「深度」さえ深ければどうだっていいのだ。何が出てくるのかを愉しめばいい。

そしてその豊かさの基準を毎日眺めるんだ。
そしてそれに対して誠実でいろ。
そして再び、現実世界を忘れずにヨガをしろ。

いつでもそれが私という「個」の価値を、最大限に引き上げてくれるのだから。

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