私達は死にたいわけではない。
魔の10月が漸く過ぎた。
神無月とも呼ぶのも納得の、神の慈悲もない、メンタルがジェットコースターのように揺れ動く時期が過ぎ去った。
そして気が付けば、もう11月だった。
恐らく何事もなく過ごせた人は少ないのではないだろうか。
自分としては特別波もなく、凪いだ心で過ごせた一ヶ月だったと振り返ってみるが、やはり一ヶ月どころか一週間、いやいや一日の中でも多少の波があり、何故か日付が変わる頃になると弱音がボロボロと溢れて泣き出してしまうことがあった。
そのためこうして新しく文章を作る気力が貯まるまで、一ヶ月を要したというわけである。
一ヶ月。約30日間。
自分は何をして生きていたのだろうか。
ニュースはチェックしているし、SNSも使っている。
だからと言って、それは「生きている」ということになるのだろうか。
けれどまあ、息をしているのだから、生きているのだ。
私達は死にたいわけではない。
タイトル通りである。
勿論死にたいという気持ち、希死念慮や自殺念慮はいつでも心の中に存在している。
遺書を書いて綿密に自殺計画だって立てたことがある。
じゃあ、何故実行しないのか。
それは臆病だからでも嘘吐きだからでもない。
生きたいからだ。
それでも死ぬことを望んでしまうのは、生きるよりも呆気なく、簡単だからだ。
自分はきっと確実に死ねる方法が目の前にあったら手に取るだろう。
死という甘い誘惑に勝てずに、唆されるだろう。
自分は一度自殺を図った。
手首を縫うほど深く切り、大量服薬、ODをして意識を失った。
結果は勿論、今こうしてnoteを書いているのだから、失敗に終わったのだ。
どん底にいる時は何を考えても何を見てもどうにもならない。
ひたすらに自分が生きていることに対する色んな感情で人の話を聞ける余裕がなくなる。
しかしそれは悪いことではないのだ。
無理に頭の中にあることを取っ払おうとしてもできない。
周囲に「気が狂ったんじゃないか」と思われてもいいのだ。
今あなたは生きようともがいている最中なのだから。
髪を何色にしようと、ピアスを何個開けようと、自分をどれだけ傷付けようと構わない。
我慢して我慢して円形脱毛症になってもいい。
笑えなくなってもいい。
自分がわからなくなってもいい。
自分の好きなことがわからなくなってもいい。
生きることは苦しい。
誰かを信じて裏切られるのが怖い。
誰にも褒めてもらえなくて、認めてもらえなくて、愛されなくて、辛い。
みっともない自分が嫌いだ。
嫌いでもいいんだ。
どうせ死ぬなら、自分のことを許してあげようじゃないか。
今までよく頑張った、よく耐えた。
傷付いた自分を褒めてあげたらいい。
生きようと努力することを邪魔する人は人生には不必要だ。
罵倒する声に耳を貸す必要はない。
自分のせいではなく環境や、運のせいにしてしまえばいい。
死ぬ前に笑い話として誰かに話してみたらいい。
死ぬことはイコール逃げるにはならないと私は思う。
死ぬことは終わりだ。
逃げたのならばその先があるのだから、死ぬことは逃げることにはならない。
誰でも終わる時は来るのだ。
それは今日か明日か、はたまた一時間後か。次瞬きをしたら死んでいるかもしれない。
もう一度だけ言おう。
私達は死にたいわけではない。