学校で、できること
こんばんは!アラタです!
昨日は、仕事が終わった後にリラックスできることをして、疲れを少しでも取ることができました!
今日のテーマは「学校」です。「学校」というものを書くなら、書いてみたいと思ったものが、大学生の時に受けた文章表現法という講義のレポートについてです。
子どもだから?
まず、取り上げる作品が映画『ソロモンの偽証』です。宮部みゆきさんの小説が原作となって映画化されています。
ここでのキーワードとなるものの一つが“学校“。
この作品は、クリスマスの日に一人の中学生、柏木卓也(かしわぎ たくや)が城東第三中学校の屋上から転落死する事件から物語が始まります。その転落死はなぜ起きたのか?誰が彼を死に追いやったのか。主人公である藤野涼子をはじめとする、生徒たちが世の中を巻き込みながら真実を探し出していきます。
その過程の中で、藤野がこんな言葉を放っています。
この言葉は、まだ子どもだから都合の悪いことは知らなくていい。そして、知る必要もない。
全てを「子ども」で片付けようとしている学校や大人たちへの不満をぶつけた一言です。学校が全てを“子どもだから“という理由をつけて“知る権利“を奪っていると感じました。
この言葉を思い出した時に、僕は“性教育“という面が、まさにそれではないかと考えました。
LGBTQや性に対して学ぼうとする機会が、ようやく最近は増え始めてきていますが、正直まだまだ足りないことだらけ。
僕自身も教壇に立ちながら、LGBTQという面で伝えられることは伝えようときましたが、まだ伝えきれていない面もあるのではないかと悩むことがあります。
でも、「子ども」だから知らなくていいというのは違うような気がする。
色んな選択肢を作って、それを子どもたちに決めてもらう。
それが必要なのではないかと考えています。
悪を“悪“と教えるのか
世の中には悪いことや良くないことをすると、はっきりと“悪“とみなされることが多くあります。
学校でも、ルールがあり、それは校則だったり常識的なことだったり色々な場面でぶつかります。その際に、悪をはっきり“悪“として教えるような場面に出会います。
しかし、全ての悪をはっきり“悪“として教えるのかというと、そうは言い切れないのではないかと感じています。
作品では、二つの“悪“が登場します。
一つ目が柏木を殺害したのではないかと疑われている生徒から、いじめを受けている被害者である三宅さんが涙ながらに訴える場面。
これが、私たちの考える悪に一番近い“悪“だと思います。
しかし、生前の柏木が藤野に、「いじめ」が悪であるとわかっているのに「悪」だと名指しせずに黙っていた君たちは“悪“だと非難する。
誰も知っていながら、見て見ぬ振りして“傍観者“になろうとする。
どちらの場面もありえるなかで、学校という現場では柏木の考える“悪“を取り上げることが少ないように思います。目に見えるものを全て“悪“として認識している。
ある行事の際に、一人の生徒から
という意見が出たことがありました。
その際に、「派手だし、だらしがないからダメ」
という考えが出ました。
これに、僕は少しモヤモヤを感じていました。そんな時に
という、ある生徒の意見が飛び出しました。
目に見えるものだけを見ようとせず、その裏までも読み取ろうとする発言に感動したことを覚えています。
目に見えるもの全てを“悪“と認識するのではなく、このように「本当にそうなのかな?」と立ち止まって考えること。
これを「学校」として取り上げてもいいのではないかと考えています。
全てを“YES“にするのではなく、時に“NO“を考えさせる。
そんな教師でありたいと、僕は意識して日々、仕事にあたっています。
「学校」だからこそ
二つの面を「学校」という場所を通して考えてきましたが、僕自身もまだできているわけではありません。
とても難しい問題ではありますが、人との関わりを学ぶ場所として「学校」が存在している。
その意味を考えながら、僕自身も『ソロモンの偽証』が問いかける問いに向き合って一人一人の生徒と向き合っていく。
今日は「学校」をテーマに書いてみました。
では、また明日!
*連載小説『キミの世界線にうつりこむ君』
ジェンダー✖︎小説であり、様々な考え方や生き方にぶつかっていく物語。
小・中学生、教育に携わる人たちに読んでほしい作品‼️
あなたも一緒にモヤモヤを考えてみませんか?
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