学校はひとつの社会?
こんばんは!アラタです!
昨日からようやく2学期が始まり、気を引き締めています!
今日は「社会」をテーマに書いていきます。
皆さんは、こんな言葉聞いたことはありませんか?
この言葉は、学校というものは一つの社会であることを意味しています。
では、果たして学校は社会の縮図なのだろうか。
僕自身の経験をもとに書いていこうと思います。
言語
まずは“言語"の視点で考えてみました。
僕がこれまで通っていた学校は、ろう学校で共通言語は「手話」です。
それには、声は出す出さないは自由で、縛られることはあまりありませんでした。
しかし、社会に出てしまうとそれはなかったものとされてしまいます。
当たり前に使っていた「手話」が通じない。
知っている人があまりにも少ない。
声を出すことを強要される。
声を出さないことが“悪“とみなされる。
そんな問題にぶつかります。
僕が本格的にろう文化ではない社会に入ったのは大学生の時でした。
これまではマジョリティだったのに、一気にマイノリティの立場に立たされる。
それは思ったよりも辛いことでした。友達がなかなか作れずに大学1年の1年間を過ごしていました。
そして、僕はよく言われることがあります。
この一言は、僕が口話も使うことから誤解されてしまったのです。
僕が声を出すのは、
そんな思いから手話と口話を使ってコミュニケーションを取っています。
ただ、声社会というのもあり、声をあえて出さない、出したくないろう者はなかなか認められることがありません。
お互いに分かり合えたのが学校であったのに、社会に出れば変わってしまう…。
マナー
学校で身につけたマナーというのは、社会常識だったり、校則だったり色々あると思います。
そのなかで、僕はマナーについて高校生の時に社会の先生から言われたある言葉を今も忘れられずにいます。
これには、ろう文化も関係しているところがあります。
例えば、ろう学校では音が聞こえない環境が当たり前です。
だから、違和感を感じる音には気づきにくい。誰かから言われてようやく気づく。
でも、社会に出たら音のマナーを気にしていかないと不快に思う人たちがいる。
学校では言われなかった行動がもしかしたら社会に出たらマナー違反になるかもしれない。
音のない世界が当たり前すぎて僕は大学生の頃に
友達と喋っている時に、声のボリュームが大きいことを指摘されました。
声のボリュームは、誰かに言われないと、なかなか気づくことができません。
なぜなら僕は“自分の声も聞こえない“から。
ろう学校では、声のボリュームについてよほどうるさかったり小さすぎたりしなければ何も言われません。
だから、音のマナーを意識するのがなかなか難しかったです。
聴文化とろう文化
聴文化とろう文化には違いがありますが。
そのなかで、お互いを尊重することができれば「聴者」や「ろう者」なんて言葉はいらなくなるのではないかと僕は思っています。
だけど、現実は違う世界のように分け隔てて考えられてしまうことが多いです。
だから、ろう者の僕はどこかで
そう、思い込んでいたのかもしれません。
社会とは
僕が関わっているこの社会にはどうしても格差があり、ラベリングされてしまうこともあります。
それでも、僕は社会に出た時にそのような差を少しでも減らせるように“学校“という場所から少しずつ、変えていきたい。
そう考えています。
そして、それを問い続けていくために叫び続けていきたい。
今日は「社会」をテーマに書きました!
では、また明日!
*連載小説『キミの世界線にうつりこむ君』
ジェンダー✖︎小説であり、様々な考え方や生き方にぶつかっていく物語。
小・中学生、教育に携わる人たちに読んでほしい作品‼️
あなたも一緒にモヤモヤを考えてみませんか?
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